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──because many demons had gone into him. (Luke 8-30)

 



 小林秀雄氏は、「現代文学の不安」 のなかで以下の文を綴っています。

     先年 ウォルタア・ルットマン の 「世界の メロディイ」 という映画
    を見た事がある。東京の場末で文筆を弄 (ろう) している男は、
    一瞬にして世界を一周させてくれる今日科学の欺瞞 (ぎまん) に
    対して感謝の意を表してしかるべきであろう。この映画は当時斬新
    な近代美を定着した芸術表現として、純粋映画だとかなんだとか
    言われたものだが、一と月たてば古物である。寸刻を争う映画技術
    上の革命は、続々といわゆる近代美なるものの新型を製造している。
    何故か。大衆がこれを要求するからだという。だが、大衆の要求する
    ものは果して近代美であるか。嘘の皮だ。人々は近代美の形式など
    というものに心を動かされようと思ってはいない。美が欲しいので
    はない。生理的快感が欲しいのだ。何物も教わりたくはない、ただ
    すべてを忘却したいのだ。時間を、神経を消費したいのだ。見たく
    はないのだ。酔いたいのだ。近代美という言葉は、映画製作者や
    これを取り巻く映画批評家たちの発明した単なる空言である。(略)
    近代美、なるほどどういう言葉でも使用は出来るが、私たちはもう
    美と醜とを区別する能力を失っているではないか、誠実と虚栄との
    けじめがつかなくなっているように。なるほど言葉は無意味になっ
    ても斬新な影像は目の前にある。だが、私たちはこれを楽しむため
    に、どれほどの疲労を提供しなければならないのか。科学の欺瞞に
    感謝するとともに、私たちは、既にどれくらい精密な欺瞞を必要と
    するようになっているかに思い到れば愕然とするではないか。

     私たちは古人の夢を嗤 (わら) うが、誰にもそんな権利はない。
    夢みるような余裕はないというが、誰も目を覚ましてはいない。
    人間が今日ほど悪夢に悩まされている時代はかつてなかったで
    あろう、と言えば悪夢とはこれまた古風な比喩であると嘲笑うほど
    私たちの悪夢は深い。たとえば、一番簡明な例をとってみたまえ、
    私たちが無感覚になっている事実がどれほど深刻であるかがわかる
    だろう。

    (略) 私たちは既に自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も
    失ってしまった。

    (略) われわれ素人が垣間 (かいま) 見ただけでも、これら科学の
    高級原論は夢に酷似している。専門家たちが自ら遂行した仕事を
    前にして唖然 (あぜん) としなければ嘘であろう。(略)

    (略) 眼を閉じて静思しようとすれば、雑然たる思索の波は思索の
    上にどうしようもない矛盾を齎 (もたら) す。矛盾を感じない知識人
    は馬鹿か嘘つきに限られている。

    (略) だが ロボット は既に蒸気機関が発明された時に生れていた
    のだ。そして ラジウム の発見とともに思想まで持たされてしまって
    いたのだ。自然と人間とはもはや対立してはいない、その間に機械
    がはさまってしまった。人を支配するものは自然の法則ではない。
    機械の法則である。(略)

 「現代文学の不安」 は、以上に引用した文のあとに──以上の引用文が前振りとなって──、本論が続くのですが、きょうは、この前振りを私の生活に照らして考えてみたいと思います。

 小林秀雄氏が以上の文を綴った年代は、1932年です──政治面では、満州事変、5・15 事件の直後です。いっぽうで、「労働運動」 が台頭してきた頃です。ちなみに、当時 (1932年 4月)、浅草松竹系映画館で、(無声映画で生計を立てていた人たちが) トーキー 化による生活不安から スト を起こして、日活系に波及した事態が生じています。自然科学では、中性子が発見されました──その 3年後 (1935年) に、湯川秀樹氏が中間子論を発表しています。そして、1939年、原子核分裂・核反応が発見されました。
 そういう世態のなかで、小林秀雄氏は、「近代」 を みつめています。

 上に引用した文の主要概念は、「近代」 (あるいは、「近代美」) でしょうね。そして、それを構成する重要細目が、「科学」 「夢」 「思索」 でしょう。それらの概念を検討して、かれが述べた意見 (主張) は、以下の文でしょうね。

    私たちは既に自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も失って
    しまった。

 逆に言えば、かれが問題提起した点は、(作家たる [ あるいは、文学者たる ] に値する) 「個」 という概念 (あるいは、意識) だと私は読みました。或る意味では──すなわち、「ひとの生きかた (人生) を観る」 という点では──、「反近代」 「反科学」 という態度を小林秀雄氏のなかに感じました。そういう態度は、文学者であれば当然のことであると私も思います。そして、そのときに争点となるのは (「科学」が支配した社会のなかで、なんとなしに同意されているような) 「近代美」 です。

 「美」 という概念は、(それを伝えている作品を 「例示」 できても、) 「美」 そのものの「定義」を下せないでしょうね。それに関して、小林秀雄氏は、ほかの エッセー のなかで、以下のように述べています。

    美しい花がある。「花」の美しさという様なものはない。

 しかし、科学者・数学者は、事物の形態のなかに、フタクタル を 「美」 として認めるかもしれない。

 エンジニア を職としている私は、いっぽうで 「文学青年」 の気質もあって、「科学」 と 「文学」 とのあいだで、つねに揺れてきました。生活のなかに存在する事物の 「しくみ」 を記述するときに、私は、「機械」 に喩えることが多い。というのは、そのほうが 「しくみ」 を把握しやすいので。というか、事物の 「しくみ」 を記述するには、エンジニア であれば、「機械」 の構造として考えるのが職業上で当然に要請されている視点でしょうね──小林秀雄氏の謂うように、「自然と人間とはもはや対立してはいない、その間に機械がはさまってしまった。人を支配するものは自然の法則ではない。機械の法則である」。

 そういう世態のなかで、私は、以下の 2つの自意識を強烈に抱いてきました。ひとつは、「機械」 に囲まれている私は a cog in a big wheel にすぎないのではないか──私など存在しなくても、他の代用品は存在する──という疎外感、そして、もうひとつは、私の考え自体が他人 (ひと) の考えを借用しているにすぎないのではないか──私自身が 「機械」 になっているのではないか──という恐怖感。幸いにも、そういう自意識に抵抗する (あるいは、反撥する) 作用として 「文学」 が私を救護してくれてきました。「文学」 に接していなかったら、私は、確実に絶えていたでしょう。ただし、それは、私が仕事に就いてから後の話であって、若い頃には逆に、感受性の強い・内気な私が 「文学」 に惹かれて 「文学青年」 の病態に陥って、そのままでは社会のなかで生きていけないほど精神的に虚弱でした──精神的に虚弱な じぶんを隠すために、生活のなかで、他人 (ひと) を見下すように尊大な ふるまい をしていたことも多々あった。

 そういう気質の私が自然に──本能的に──歩んだ道が 「モデル を作る」 という道でした。すなわち、「科学的」 な仕事でありながらも、いっぽうで 「文学的」 な性質を帯びているという仕事を選んでいました。そういう状態にあれば、小林秀雄氏の謂うように、「眼を閉じて静思しようとすれば、雑然たる思索の波は思索の上にどうしようもない矛盾を齎す」。私は、嫌というほど、それを実感してきました──その矛盾に耐えきれなくて、人前で泣いたこともありました。この文を綴っている今でも、じぶんが社会のなかで立っていることを神奇に感じています。文学と真摯に向きあって、しかし、文学を仕事にするほどの覚悟がなかったひとは、たぶん、私と同じ気持ちを抱いているでしょう──私の場合には、今となったら [ 文学を仕事にするほどの覚悟がなかったので、他の仕事に就いたにもかかわらず ]、「モデル を作る」 という道を歩んできたので、「じぶんとの戦い (『個』 の identity を強く意識すること)」 を仕事にしているような状態です。だから、矛盾に苛 (さいな) まれている──その状態が 「反 コンピュータ 的断章」 と 「反文芸的断章」 という ふたつの断章を私に綴らせている次第です。

 日本では、「個」 という意識は、「近代」 になって強く意識されてきたのかもしれないけれど、「個」 は 「近代」 とは べつの論点でしょうね──西行の歌を読めば、それが わかるでしょう。そして、フランス の文学・哲学を熟読していた小林秀雄氏は、当時、日本の文学者のなかで、たぶん、「個」 という概念を際立って実感していたのではないかしら。かれは、ボードレール 氏・ランボー 氏・ヴァレリー 氏・アラン 氏からの影響を否定しないでしょう、きっと。

 さて、西行や小林秀雄氏ほどの才がない私は、そして、「科学」 が支配する社会のなかで生きている私は、「現代」 と向きあったときに 「個」 を hold together することに困難を感じています。「私たちは既に自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も失ってしまった」──それでも、そういう状態に対して、私は なんとかして抵抗したい。

 小林秀雄氏は、「批評家失格 T」 のなかで 「感動しながら思案するのは難しい」 ことを吐露しています。そして、「批評について」 のなかで、「愛情を孕 (はら) んだ理智は、覚め切って鋭いものである」 「批評で冷静になろうと努めるのはいい、だが感動しまいと務める必要がどこにある」 とも述べています。しかし、「近代 (および、現代)」 という社会は、その 「感動」 も他人からの贈り物であることが多くなっているのではないかしら──「勇気・感動を ありがとう」 と。そういう ことば を発する素直さ──艱難を乗り越えた他人 (ひと) や刻苦の末に夢を実現した他人を観て感動して、かれらを賛辞する素直さ──を私は認めない訳ではないけれど、数日後には、その感動も薄れてしまっているというのでは、はたして、その感動は いったい どういう性質だったのかと怪訝に思わざるを得ないでしょう。「自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も失って」 他人への感情移入でしか感動を味わえないという状態は、カタルシス の一形態でしょう。「酔いたいのだ」、少なくとも、「じぶんが生きる」 という態ではないでしょうね。

 エンジニア (私のこと) が 「反近代」 という意識を強烈に抱いているという事態は、「悲劇 (喜劇 ?)」 ではないか。そして、そういう人物が分裂症を患わないほうが奇怪 (おか) しい [ 確実に患っているはずです ]。

 
 (2010年11月16日)


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