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Go; your son will live ! (John 4-50)

 



 小林秀雄氏は、「現代文学の不安」 のなかで以下の文を綴っています。

    (略) 不安が極限に達すれば、人はもう不安なくしては生きられぬ
    と感ずる。不安は彼の神ではないとしても、少なくとも彼の支柱と
    なる。昔は不安とは精神の或る疾病であったが、今日では不安
    こそ健康な状態となった。こういう時、人は自分を忘れて最も饒舌
    (じょうぜつ) になる。不安だ不安だと喋りちらすが、彼の声は少し
    も慄えてはいないのである。自己宣伝の一番栄えるのは、人が
    己れを失った時に限る。口に弁証法を唱えなあら、こんな単純な
    弁証法がどうしても呑みこめない、それほど奇怪な錯乱が今日の
    文学界を支配しているのだ。

     私は近頃になってやっと、次の事が朧気 (おぼろげ) ながら腹
    に這入 (はい) ったように思う。それは青年にとってはあらゆる
    思想が、単に己れの行動の口実に過ぎず、思想というものは、
    いかに青年にとって、真に人間的な形態をとり難いものであるか、
    という事だ。なるほど言葉は簡単だが、事実は非常に複雑である。
    この欺瞞は、情熱の世界にも感情の隅々にも、愛情にも憎悪にも、
    さては感受性の端くれにまで、その網の目を張っている。いくら
    社会を眺めても、本を読んでも、政治行動の真似事をしても、自分
    の身を省みなければこの謎はとけぬ。私の貧しい体験によれば
    私の過誤は決して感情の過剰にはなかった。自他を黙殺して省み
    ぬ思想の或は概念の過剰にあった。ものの真形を見極めるのを阻
    (はば) むものは感情ではなかった、概念の支配を受けた感情で
    あった。(略)

     私の推定では今日の新作家の九十 パアセント は自国の文学に
    通じてはいない、老人等は舶来 (はくらい) 謳歌を非難するが、
    最も近い世紀の外国人の最大傑作の系列も知りはしない。では
    自分の事は知っているのか、というとこれはまた一番興味のない
    事柄なのだ。誰も自分を点検しようとはしない。自分の過去が一切
    無意味となって、過去の人々にどんな意味が発見出来ようか、いや
    現在についてどんな認識を持ち得ようか。彼らの前にはただ白い
    原稿用紙と ペン と数冊のしかも今月の雑誌があるだけだ。そして
    ただ他人の理論が、方法が聞きたいという無意味な欲望があるだけ
    だ。何故に自分を疑う事から始めないのか。若年にしてしかも自ら
    労せず人生一般に関する明瞭な確信が欲しいのか。人間というもの
    が解りかけもしない年頃で、既に新手法に通達しているとは奇怪な
    現象ではないか。あるいは最も予言的な思想が、最も拙劣な表現に
    盛られる。

 「現代文学の不安」 は、以上の引用文に続いて さらに文が綴られているのですが、きょうは、ここまでを対象にしましょう。

 以上の引用文で述べられている主要概念 (主張) は、「自分を疑う事から始めないのか」 という文でしょうね。重要細目は、以下の ふたつでしょう。

  (1) 言葉は簡単だが、事実は非常に複雑である。
    自他を黙殺して省みぬ思想の或は概念の過剰にあった。

  (2) 自分の過去が一切無意味となって、過去の人々にどんな意味が
    発見出来ようか、いや現在についてどんな認識を持ち得ようか。

 現代では、「省察」 という ことば は廃語になってしまったのかもしれない、、、私は上に引用した文を読んでいて、不気味な機械を想像しました──その機械は 「分類語彙表」 を内蔵していて、なんらかの対象 (それが思想であってもいいし、事態であってもいいし、その機械が捕捉した対象) を読み込んで [ input にして ]、その対象を整理する語彙を 「分類語彙表」 の中から選んできて、その対象に分類語 (ラベル) を刻印して output する、という有様を想像しました。しかも、CPU は高速に演算をこなす。機械は、みずからの動作を疑わない。
 そういう類の smart-alec (小悧巧な ヤツ ら) を私は わんさと観てきました。

 私は、ここで、「ことば と行為」 とか 「ことば と事実」 という難しい (大きな) テーマ を扱うつもりは更々ないのですが、ただ、ひとつ確実に言えることは、じぶんの 「身証」 というのは──言い換えれば、「じぶん」 という本性は──、つねに 「過去形」 でしか把握できない、ということ。しかも、じぶんのことは じぶんのみを対象にしても把握できないということ。じぶんが どういう性質であるかは、つねに、社会のなかでの座標で把握するしかないでしょう。したがって、じぶんが社会に対して どういうふうに関与したのか が問われるはずです。そして、じぶんが社会に関与するときに、じぶんの 「文体」 が現れるでしょう。

 じぶんというのは、じぶんの過去が結実した果物ではないか。したがって、「思い出」 を持たぬ思想など有り得ないのではないかしら。「未来」 を語ることに較べたら、「過去」 を語ることが いかに難しいか、、、[ じぶんの行為を備忘的に記録した ] 日記を読み返してみても、私は、あの時に、ああいう行為をしたのは どうしてなのか を説明することが難しい。せいぜい 矛盾だらけの じぶんを観るに終わる。あるいは、当時は最良の選択だと思って行 (おこな) ったことが今となっては後悔を感じる。なんらかの 「思想」 を語るのであれば、「じぶんを疑わない」 ことなどないはずです。そうでなければ、借り物でしょう。

 文学作品を読んでいて、私が最近になって やっと わかってきたこと として、私が作品に対して感じる魅力は、ストーリー ではなくて、作家の 「文体」 だということです。ストーリー は一回読めばわかる。でも、「文体」 は 幾度読んでも惹かれる。そして、「文体」 は、文字通りに、借り物ではない。

 
 (2010年11月23日)


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