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Be sorrowful, cry, and weep; (James 4-9)

 



 小林秀雄氏は、「現代文学の不安」 のなかで以下の文を綴っています。

    [ 1 ]
     インテリ という言葉が流行している。敢えて流行していると
    いう。インテリ という新語は出来たが、この インテリ を一つの
    型として強力に作品の上に実現した作家はまだ一人もないから
    である。私は インテリ である。願わくば不幸なる インテリ たる
    天寿を全うしたいと思っている。

    [ 2 ]
     インテリ という言葉を弱志魯鈍の同義語に使用する文壇は、
    すべて インテリ が形成している。大学生の某君が評論を書い
    て誰々の プロレタリヤ 小説は インテリ 臭味があっていかん
    などと威張っている。編輯後記を見ると某君の評論、その渋味
    のあるところを買って戴きたいと書いてある。実に現代でなくて
    は見られぬ喜劇である。

    [ 3 ]
     一と昔前、性格破産者という事が作家の間で言われた。当時
    の私には彼らの描くところは充分に悲劇に映ったが、今はもう
    別様に映る。今日の知的作業が、己れを告白しようとして思い
    止まり、新手法の捜索に憂身 (うきみ) を窶 (やつ) し、作家
    たる血肉を度外視して、自ら方法論の土偶と化しているところ
    に、己れを告白してみてもいずれは流行遅れな性格破産者を
    表現するに過ぎぬ、と感じる漠然たる不安、無意味な逡巡
    (しゅんじゅん) を、私は見るように思う。作家とは果たしてそう
    いうものであろうか。君ら自身こそ真の作家の好個の材料では
    ないのか。

    [ 4 ]
     一と昔前の知的作家たちがどのような手つきで性格破産者を
    扱ったか。彼らは性格破産者を描いたのではない。むしろ歌った
    のである。それは自己嫌悪者の当然な歌だったのである。自己
    嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の
    形式だ。この形式を生んだ歌だったのだ。彼らを取巻いている
    社会環境は、今日のように惑乱したものではなかった。彼らは
    充分に文士気質を振廻す余裕を持っていた。では彼らは何に
    追いつめられたか、彼らの繊細な感覚を苛立てる彼らのいわゆる
    俗人たちに、彼らの嫌悪する俗人たちの実用主義に。この嫌悪
    が自然派伝来の自己修養癖に結びついて内攻したものが性格
    破産の歌だったのだ。彼らの絶望は詩的精神の所産である。
    散文的精神はこれに関与してはおらぬ。この絶望した詩人ら
    の最も傷ましい典型は芥川龍之介氏であった。

 [ 1 ] から [ 3 ] までは、「インテリ」 「性格破産者」 という概念を例にして、作家たる面貌が昔と今では変わったことを小林秀雄氏は綴っています──そして、かれは、現代作家の態度を非難しています。それらの記述が [ 4 ] の前振りになっています。

 [ 4 ] のなかで私を惹いた文は、以下の文です。

    では彼らは何に追いつめられたか、彼らの繊細な感覚を苛立てる
    彼らのいわゆる俗人たちに、彼らの嫌悪する俗人たちの実用主義
    に。この嫌悪が自然派伝来の自己修養癖に結びついて内攻した
    ものが性格破産の歌だったのだ。彼らの絶望は詩的精神の所産
    である。

 以上の文は、私の実感を代辯してくれています。
 私に限らず、文学を真摯に愛している 「文学青年」 は、たぶん、私と同じような実感を抱いているでしょう。しかも、私は、「俗人たちの実用主義」 を進める仕事に就いているという泥沼に嵌 (はま) っています。そういう人物が 「性格破産」 を起こさないほうが奇怪 (おか) しい。そういう状態にいて、私が 「性格破産」 を起こしていないというのではない──確実に、起こしている。その兆候として、寝覚めのときに、言い知れぬ 「不安」 を強烈に感じています。しかも、ここ一年ほど眠られない夜が続いています──極めて睡眠時間が少ない。私は、そういう私自身を凝視しています──こういう強い精神が 「文学青年」 の性質の ひとつでもあるようです。

 悲しいことや辛いことが私を襲ったときに、私は、ドップリ と そのときの気持ちに浸って、ひたすら、じぶんを見据えるようにしてきました。そういう態度は、若い頃 (20歳代) からの習性であって、私は、そうそう ヤワ (軟脆) な性質じゃない。小林秀雄氏の謂う 「修養癖」 が私にあるのでしょうね──私は数ならぬ身であるけれど、なにがしかの修行僧 (文字通りの 「求道者」) で 在 (あ) りたい。私の身の上に起こった事態に対して、私が どのように振る舞い、どのような感情を抱き、どのように思考するのか を凝視して、もし、私が事態に耐えきれないで潰 (つぶ) れるのであれば、それでもいい [ それは それで しかたがない ]、という納得がある──私の人生なのだから、私の身の上に起こったことを精一杯の努力をしても耐えられないのであれば、しかたがない、と。

 
 (2010年12月 1日)


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