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Can trouble do it, or hardship or persecution... (Romans 8-35)

 



 小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。

    自分の凡庸がしみじみと腹に這入った。と言えば君は俺になんの
    同情も感じまい。

    正確な意味を掴む事に、極度の困難を覚える近頃なのだ。再び
    言う、俺は今恐ろしく月並みな嘆きのただ中にある。

    だが俺にしてみればなんの事はない俺の不幸な性癖の一つに
    過ぎない。

    同感するほど阿呆でもない代りには、腹を立てるほどの己惚れ
    もない、仕方がないから一種嫌な種類の汗をかいて黙っている。
    これはかなり憂鬱な事である。

 
 以上の引用文は、まさに、私の今の気持ちを代辯してくれています。

 憂鬱を覚えない 「文学青年」 などいないでしょう。もし、いたとしたら、阿房にちがいない。なぜなら、社会や人生を真摯に見据えて憂鬱を覚えないような感性は、およそ、文学の精神にそぐわないので。社会・人生を高階から見下ろして嘲笑するのが文学精神ではないのであって、社会・人生のなかで感じたことを機縁にして、社会・人生とは べつの世界──「美」 の世界──を作るのが文学精神であって、しかも、その 「美」 を作るためには、作家は 「文体」 を持たなければならない。そういう世界を構成しようと試みて、じぶんの凡庸さを感じて嘆かない (あるいは、苦悩しない) ような作家などいないでしょう。況や そういう世界を構成しようと夢みて、作家になるほどの ちから のなかった 「文学青年」 たるや いっそう惨めでしょう。「仕方がないから一種嫌な種類の汗をかいて黙っている。これはかなり憂鬱な事である。」 それが今の私です。

 しかし、そういう惨めな 「文学青年」 でも、懸命に思考しています。なぜなら、思考を促す感性を じぶんの意志では止めることができないので。そして、思考が勝手に走るというのは、辛い。溢れる思考を じぶんで コントロール できないので辛くて、ただただ縮こまって (しゃがんで) 震えている。思考を促す感性を止めることができたならば、、、楽だろうに。どうして、こういう性質 [ 感性過多 ] になってしまったのか、、、。じぶんが住みたい世界が向こう側にあって、そこに辿りゆく ちから がないので、ここに止まらざるを得ない──「自分の凡庸がしみじみと腹に這入った」。「俺は今恐ろしく月並みな嘆きのただ中にある」。

 
 (2010年12月16日)


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