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But whoever has been forgiven little shows only a little love. (Luke 7-47)

 



 小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。

     突然だが俺はあの女とは別れた。結局はじめから惚れて
    なんぞいなかったのだ、と俺も人並みに言ってみたいものだ
    と思う。一 (ひ) と頃の文士というものは、よくそんな事を
    言いたがっていたものだ。案外これは文学批評上重大な
    デエタム になるかも知れない。それはともかく、俺としては
    何かしら後悔に似た感情が起ったと思った時には、既に充分
    に惚れていたと言った方がいい。別れた今でも充分に惚れて
    いる、誰でも一 (い) ったん愛した女を憎む事は出来ない。
    尤も俺もようやく合点した、女との交渉は愛するとか憎むとか
    いうような生やさしいものじゃない。

     俺は君に自分と女とのいきさつを報告する気はない。俺は
    恋愛小説を書く才能を持ってはいないし、それに自分のしでか
    した事件の顛末 (てんまつ) を克明に再現しようという、或る
    種の人々の持っている奇妙な本能を持っていない。要するに
    過ぎてしまった事だ、ふとそう思うだけで俺は自分の過去を
    語る事がどうにも不可能のように思われて来る。俺のして来た
    経験の語り難い部分だけが、今の俺の肉体の何処かで生きて
    いる、そう思っただけで心は一杯になってしまうのだ。どうやら
    俺は、自分の費やして来た時間の長さだけに愛着を感じている
    ような気がする、たとえその内容がどうあろうとも。俺は別れ
    た女に愛着を感ずるというよりもむしろ、女が俺に残して行った
    足跡について思案している。

 こういう テーマ を本 エッセー で扱うかどうかを私は迷ったのですが、「X への手紙」 のなかで 「女 (との恋愛)」 を外してしまうと骨抜き状態になるので、取りあげた次第です。小林秀雄氏が 実際に そういう体験をしたかどうかには私の興味はないのであって、かれが言うように 「女が じぶんに残して行った足跡」 という点に私は惹かれています。

 烈しい恋愛をするひともいれば、そうでないひともいるでしょうし、恋愛が人生を豊かにするというような言い古されてきた (same old な) 人生訓を述べるつもりは私には更々ない。ただ、いったん、恋愛をすれば、それが得恋であろうが失恋であろうが、そのひとの人生のなかで なにがしかの 「足跡」 を刻んで 「思い出」 となるのは確かでしょう。そして、「文学青年」 は、たいがい、烈しい恋愛を──それが相思相愛であれ、片思いであれ──してきているでしょう。

 「文学青年」 であった私も烈しい相思相愛の恋愛をしてきています。私は、ここで じぶんの恋愛体験を述べるつもりなど更々ない。小林秀雄氏の謂うように、「俺は恋愛小説を書く才能を持ってはいないし、それに自分のしでかした事件の顛末 (てんまつ) を克明に再現しようという、或る種の人々の持っている奇妙な本能を持っていない。要するに過ぎてしまった事だ、ふとそう思うだけで俺は自分の過去を語る事が どうにも不可能のように思われて来る。俺のして来た経験の語り難い部分だけが、今の俺の肉体の何処かで生きている、そう思っただけで心は一杯になってしまうのだ」。私は その体験を 「思い出」 として振り返ることができるまで 10数年の年月を費やしました。「どうやら俺は、自分の費やして来た時間の長さだけに愛着を感じているような気がする」。今となっては、「熱く悲しい」 思い出です。

 彼女が、今、私の前に現れたら、私は彼女を 「思い出」 として落ち着いて眺めることができるか、、、否。「熱く悲しい思い出」 として私の記憶にある彼女は、20歳代前半の面影のままです──彼女は、いま、50歳代なかばです。「過ぎてしまった事」 だと思っても、「今の俺の肉体の何処かで生きている」 が故に、落ち着いてはいられないでしょうね。「さらば」 というも残る恋──この状態は恋愛して、なんらかの理由で別れなければならなかった ひとの ほとんどすべての ひとが感じている状態じゃないかしら。

 では、過去のことを今になって やり直すことができるか、、、否。たとえ、やり直したとしても、当時の 「耀 (かがや) き」 は、再び生まれないでしょうね。なぜなら、その後にも、われわれは人生を歩んできて、過去の出来事の上に様々な出来事を積んできたのだから。冷 (さ) めた ピザ (pizza) は見栄えが美しくとも不味 (まず) いにちがいない。そうであれば、一人の男と一人の女が真摯に愛しあったという具体的な・特殊な関係を そのままにして過去のなかに置いてきたほうが相応 (ふさわ) しい。そして、その体験は、私の人生のなかで確実に時空を占めたのだから、「私」 (私の運命 [ すなわち、性質 ]) のいちぶになっているのも事実でしょう。

 「脛の疵を思い出すのにくだぶれないわけはあるまい」。
  (小林秀雄氏、「批評家失格 T」)

 
 (2011年 1月 8日)


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