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It shows itself in immoral, filthy, and indecent actions; (Galatians 5-19)

 



 小林秀雄氏は、「X への手紙」 のなかで以下の文を綴っています。

     女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしては
    この世を理解して行こうとした俺の小癪 (こしゃく) な夢を
    一挙に破ってくれた。と言っても何も人よりましな恋愛をした
    とは思っていない。(略) 愛しているのか憎んでいるのか判然
    しなくなって来るほどお互の顔を点検し合ったり、惚れたのは
    一体どっちのせいだか訝 (いぶか) り合ったり、相手がうまく
    嘘をついてくれないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと
    かえってがっかりしたり、──要するに俺は説明の煩に堪え
    ない。

    (略) いずれにせよ俺は恋愛は馬鹿々々しいような口吻を洩す
    人間には、青年にしろ老人にしろ同じような子供らしさを感ずる。
    いずれ今日の社会の書割は恋愛劇には適さない、だが俺に気
    になる問題は、適すにせよ適しないにせよ恋愛というものは、
    幾世紀を通じて社会の機械的なからくりに反逆して来たもう
    一つの小さな社会ではないのかという点にある。

     俺は恋愛の裡 (うち) にほんとうの意味があるかどうかという
    ような事は知らない、だが少なくともほんとうの意味の人と人との
    間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺い知れない
    様々な可能性をもっているという事は、彼らが夢みている証拠とは
    ならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺たち
    はむしろ覚め切っている、傍人には酔っていると見えるほど覚め
    切っているものだ。この時くらい人は他人を間近かで仔細に眺める
    時はない。あらゆる秩序は消える、従って無用な思案は消える、
    現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は
    許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この
    時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生き生き
    として来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時
    はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。

     女は男の唐突な欲望を理解しない、あるいは理解したくない
    (尤もこれは同じ事だが)。で例えば 「どうしたの、一体」 など
    と半分本気でとぼけてみせる。当然この時の女の表情が先ず
    第一に男の気に食わないから、男は女のとぼけ方を理解しない、
    あるいはしたくない。ムッ とするとか テレ るとか、いずれ何かしら
    不器用な行為を強いられる。女はどうせどうにでもなってやる
    つもりでいるんだからこの男の不器用が我慢がならない。この
    事情が少々複雑になると、女は泣き出す。これはまことに正確な
    実践で、女は涙で一切を解決してしまう。と女に欲望が目覚める。
    男は女の涙に引っかかっていよいよ不器用になるだけでなんに
    も解決しない。彼の欲望は消える。男は女をなんという子供だと
    思う、自分こそ子供になっているのも知らずに。女は自分を子供
    のように思う、成熟した女になっているのも知らずに。

    (略) 凡そ心と心との間に見事な橋がかかっている時、重要なの
    はこの橋だけなのではないのだろうか。この橋をはずして人間の
    感情とは理智とはすべて架空な胸壁ではないのか。人がある好き
    な男とか女とかを実際上持っていない時、自分はどういう人間か
    と考えるのは全く意味をなさない事ではないのか。

 上の引用文に関して、私 (佐藤正美) は、まるで、じぶんのことを批評されているような実感を覚えました。そして、30数年前の 「熱い悲しい」 恋愛が私の脳裡を走った。拙い二人だったけれど、真摯だった。これ以上のことを綴るほどに私は露出癖はないので、私の思い出については ペン を止めます。

 小林秀雄氏の謂うように、恋愛が馬鹿々々しいような口吻を洩す ヤツ を私は信用しない。そして、また、じぶんの恋愛を饒舌に語る ヤツ も私は信用しない。私は 「相聞と辞世」 を人生の真髄としてみなしています。私の一番に好きな恋歌は、西行法師の和歌です。

    はるかなる岩のはざまにひとりゐて人目思はでもの思はばや

              (新古今集巻12・恋歌二・1099番 西行法師)

 恋歌には聞こえないような調べですね。水墨画のなかに描かれた岩々の稟列さを感じるような時空の広さが伝わってくる歌ですね。歌われた恋は、きっと、「思い出」 の恋でしょう。恋──しかも、忍ぶ恋か──ゆえに逞しくなった脱俗僧形の堅忍を感じます。逆説に響くかもしれないのですが、「我執を脱落 (とつらく) した我」──恋を詠っている本人そのもの-の混じりっけない個性──を感じる歌です。こういう歌は定家でも詠えないでしょう。

 辞世の句では芭蕉を一番に好きです。

    旅に病み夢は枯野をかけ廻る

 
 恋愛 (男女関係) は、いかに真摯であっても、終 (つい) に地獄へ堕ちるのかもしれない。西行法師の歌 (「聞書集」)、

    問ふとかや何ゆゑ燃ゆるほむらぞと君をたきぎのつみの火ぞかし

 そして、

    ここぞとて開くる扉の音聞きていかばかりかはをののかるらん

 これらの歌は 「地獄絵を見て」と題する連作 27首の中から選んだ作品です。紅蓮(ぐれん)の火焔は、業火と云えるでしょう──しかし、地獄に堕ちなくても、現世において地獄さながらの恋愛も 「文学青年」 好みの恋愛かもしれない。

 
 (2011年 1月23日)


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