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I'm sending you out just like sheep to a pack of wolves. (Matthew 10-32)

 



 小林秀雄氏は、「年末感想」 のなかで以下の文を綴っています。

    (略) ファッショ 文学の出現、プロレタリア 文学の軟化、芸術
    派文学の低迷等々──相変らず ジャアナリズム の提出す
    る文壇的問題は多様である。だが提出される文壇的問題が
    必ずしも真に文学的問題だとは限らない。そうだ、必ずしも
    限らない。この必ずしも限らないという点だけが一番大事だ。
    ここの処の事情を明らかにする事の困難な、文芸批評家、
    月評家等の多種多様な姿を生み出す。或る批評家は自ら
    確たる批評上の物尺 (ものさし) を持っていると信じている
    かもしれない、また或る批評家は何ものにも捕われない自由
    な立場から、ものを言っていると信じているかも知れない。
    だがとどのつまり、かれらを一番無慈悲にこづき廻している
    ものは、かれらがそれと気づいているにせよいないにせよ、
    如上の困難ではないのか、と私はしばしば考える。時の流れ
    という、われわれとは到底比較にならない批評家が、この
    困難を極めて徐々に殺して行く。(略)

 「だが提出される文壇的問題が必ずしも真に文学的問題とは限らない」 という点に関して、小林秀雄氏は、上の引用文に後続する文のなかで、ふたつの作品を例にして批評家が考えるであろうと想われる質問 (「それぞれの同類作家は相似ているのか」) を示し 「なるほど愚問といえば愚問であるが、精神が偏見を抱くまいとして一応は挨拶すべき愚問である」 と綴っていて、さらに、「厳格な無秩序」 という ことば を使って文を続けて、「夜明け前」 (島崎藤村 作) が発表された当時、或る批評家が 「こういう小説を今日一体誰が読むのか、こういう小説に興味もなく、(略) 全く違った思想と感情とに生きる新しい階級が、読者層が存在する事実をとくと見よ」 と云ったにもかかわらず、「夜明け前」 の連載が悠々と続いたことを示して、「重要なのは今日の文学の種類別けではない。現実の作品の持つ現実の読者である」 という意見を述べています──そして、その意見を述べる手前で、「私は徒らにいわゆる反動的言辞を弄するつもりはない。私はただ問題をもう少し注意深く眺めたいと思うのだ」 と執筆の狙いを明らかにしています。小林秀雄氏の示した態度を私 (佐藤正美) は共感しますし、この態度こそが批評家たる態度であると思っています。それゆえに、本 エッセー の本文に入る前に、いささか長い前置きの文を綴った次第です。

 さて、作品を批評する場合に──否、作品にかぎらず、なんらかの批評をおこなう場合に──、「そこらにころがっている物指 (ものさし) を拾い上げて、他人を計るのはもっとも失敬な事」 (「アシル と亀の子」) でしょう。「○○ って、×× なものさ」 という言い草をして本人いっぱし世事を見通したように居士ぶっている連中を私は わんさと観てきました──その言い草を私は黙って聞き流して、顔を下に向けて笑うことにしています。そうされて赤面しないような ヤツ は阿房にちがいない。

小林秀雄氏の謂うように、「だがとどのつまり、かれらを一番無慈悲にこづき廻しているものは、かれらがそれと気づいているにせよいないにせよ、如上の困難ではないのか」──「如上の困難」 の意味は、対象を ひとつの物尺 (説) で計って なにがしかの レッテル を貼っても、「必ずしも (そうとは) 限らない」 という意味です。「快刀乱麻を断つ」 ごとく次々に断言してゆく様は、一見 頼もしいようにみえて、実は、対象を丁寧に観ていないのではないか。そして、ひとつの断言に対して反論 (反例・反証) を立てることくらい簡単なことです。どちらの論が 「真」 であるかは、社会のなかで、「事実」 と照らして判断されるでしょう。しかし、文芸において厄介な点は、作品のなかで構成されている 「思い」 (あるいは、「美」) を社会のなかで具体物として探すことができないという点でしょうね。「世に問う」 という形でしか作家は立つべき所がない。

 しかも、世間では──言い替えれば、世間という時空のなかでは──「時の流れという、われわれとは到底比較にならない批評家が、この困難を極めて徐々に殺して行く」。すなわち、じぶんの 「思い」 を世間のなかに たとえ切実に晒したとしても、作品に込められた 「思い」 は [ そして、ことば の ニュアンス は ]、時の流れのなかで削られて作品の テーマ が要約された巷説となる──作品を要約した 「作家の思想」 が流説する──「○○ って、×× なものさ」 と [ 「『宣言一つ』 を書いた有島武郎って、プロレタリア 文学の台頭の中で じぶんの座標を喪って、人妻と情死した作家でしょう」 と。]

 われわれは 「社会」 のなかで (他人の眼には) 要約された個体でしかないということも是非がない事実でしょうね。

 
 (2011年 4月 8日)


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