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Love must be completely sincere. (Romans 12-9)

 



 小林秀雄氏は、「年末感想」 のなかで以下の文を綴っています。説明の便宜上、それぞれの段落に対して番号を付与しておきます。

    [ 1 ]
    (略) 理論家たちは、この言葉を引用するために知っている。
    だが世人は生活するためにこの言葉を会得 (えとく) して
    いる。不思議な事だ。惟うにすべての名言は、万人がわれ知ら
    ず心得ているまさしくその点を、その点のみを射抜いている。
    あんまり解りすぎているからこそ解り難い。この名言の持つ
    奇妙な性格がやがて名言が人なかを渡り歩く時に、あたり
    かまわず発散させる臭気の源をなす。

    [ 2 ]
    (略) 誰々の批評には指導原理があるとかないとかいう。誰々
    の批評には洒落があるとかないとかいうようにいう。聞いて
    いるとまるで鬚 (ひげ) があるとかないとかいっているよう
    に聞える。(略) 大切なのは原理選択の問題ではない。選ん
    だ原理の扱い方だ。器用に扱うか、不器用に扱うか。器用
    すぎる人は自分の器用を嘆くべきだし、不器用な人は──
    そんな人がいるかしらん。

    [ 3 ]
     正宗白鳥氏の 「文壇人物評論」、先日熟読して感服した。
    近頃の名著である。
     氏がどんなに親身になって他人の作品を読んでいるか。ここ
    にこの本の魅力の源があり、氏の評論の最も驚くべき点がある。
    氏の理解力や教養も、無論並々ならぬものには相違なかろうが、
    それだけではこういう本は書けないのだ。(略)
    そして今私たちが読了して痛感するものは何んだ。文学の立場
    にたって、見事に文学の立場を追い抜いている光景ではないのか。
     主観的、客観的、そういう言葉は元来空言である。氏の批評
    に文学の指導的原理があるかないか、どこにもない、だがどこ
    にでも見つかる。

 [ 1 ] については、以前に綴った 「反文芸的断章」 (2010年 4月16日付) を読んでください。そして、[ 2 ] については、以前に綴った 「反文芸的断章」 (2011年 1月16日付) を読んでください

 [ 3 ] の中核概念は、引用文中に私が赤線を引いた 「それだけではこういう本は書けないのだ」 という文で示されていると思います──最後の文 「氏の批評に文学の指導的原理があるかないか、どこにもない、だがどこにでも見つかる」 が小林秀雄氏の所見なのですが、その所見を導いた、そして、彼の所思を一撃で放った文は 「それだけではこういう本は書けないのだ」 という文でしょうね。

 指導原理を たとえ 巧妙に扱っても、「こういう本は書けない」──それは何故か、それは 「親身」(すなわち、食い入る度合い、fully committed) になっていないからでしょうね。いくら巧妙に綴られた文であっても、読み手は それ [ 真摯 (fully committed) かどうかということ ] を 「正 (まさ) しく感じる」。なお、この点については、以前に綴った 「反文芸的断章」 (2010年 7月16日付) を読んでください。この点を納得できなければ、「器用すぎる人は自分の器用を嘆くべきだし、不器用な人は──そんな人がいるかしらん。」 「氏の批評に文学の指導的原理があるかないか、どこにもない、だがどこにでも見つかる。」 の意味を掴めないでしょう。

 
 (2011年 4月16日)


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