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...what I say is not to be accepted as real proof. (John 5-31)

 



 小林秀雄氏は、「手帖 U」 のなかで以下の文を綴っています。

     今は私は自意識の過剰を恥じてもいないし、恐れても
    いない。以前は恥じている風な、恐れている風な口吻を
    しばしば洩らしたりしたが、本当に恥じたり恐れたりした
    事は一遍もなかった、いやむしろ充分に過剰でなかった
    ために、そんな口つきにもなったのだ、と今は思っている。
    過不足のない意識が、過不足のない真理を捕える、そん
    な事はお伽噺 (とぎばなし) だ、と今は言いたい気だ。
    過剰に苦しまぬ意識が、事物の極限概念に廻り会う時
    はないのだ。

 「格言」を暗記して人生を知ったつもりになるのは虫がいい、「過剰に苦しまぬ意識が、事物の極限概念に廻り会う時はない」 のだから。たいがいの 「文学青年」 は、若い頃に 「自意識の過剰」 を悩んできたでしょうね。しかし、その態は、世間の目から観れば、「青臭い」 書生のように映るでしょうね。そう感じない 「文学青年」 がいたとしたら、それこそ、「自意識の過剰」 には至っていないでしょう──「文学青年」 には値しない。「過剰でなかったために」 産まれるポーズ (擬態) もある──他人 (ひと) は、それを鋭く感じとる。その ポーズ (擬態) を 「文学青年」 の性質だと思われても困る。世間に対する適応力のなさを文学の所為にするのは的外れでしょう。「精神を精神でじかに眺める事」ことは、そんなに生やさしいことじゃない。

 「自意識の過剰を恥じてもいないし、恐れてもいない」 小林秀雄氏と対座して、彼を 「青臭い」 と批評できるほどの ひと など そうざらには いないでしょう (笑)──もし、そういう ひと がいたとしたら、いかほどの人生を歩んできたのか、「文学=青臭い」 という文字列しかストアされていないような機械的頭脳では小林秀雄氏の眼を直視できないでしょう──本物を前にして戯れな批評などできる訳がない、きっと怪我をする。

 
 (2011年 5月23日)


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