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...the greatest one among you must be like the youngest,... (Luke 22-26)

 



 小林秀雄氏は、「故郷を失った文学」 のなかで以下の文を綴っています。

     先日米川正夫氏の訳で ドストエフスキイ の 「未成年」
    を再読し、以前読んだ時には考えてもみなかった色々な
    事に気がついたが、とりわけ作者が 「未成年」 と題を
    つけた意味がはっきり解ったように思った。作者は一青年
    の眺めた世間を、一青年の口を通じて語り、これによって
    凡そ青年というものの正体、その美しさと醜さ、その過敏
    性と鈍感性、彼の狂気も情熱も滑稽も、青年の属性一切
    をぶちまけている。青年というものは、人間と呼ぶには決し
    てふさわしいものではなく、何か別の名で呼ばねばならな
    い一種の動物に違いない、というような一種不気味なくら
    いな感銘を得た。ことに描かれた青年が、西洋の影響で
    頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失って
    いるという点で、私たちに酷似しているのを見て、他人事
    ではない気がした。まるで自分が手玉に取られているよう
    な想いのする場面に方々でぶつかった。

 この 「未成年」 は、「文学青年」 の性質を帯びていると想っていいでしょう。「文学青年」 という ことば には、「文学を愛好し作家を志望する青年」 という文字通りの意味のほかに、「軽薄な文学好きの青年」 という意味もあるのですが (「新潮 国語辞典」)、「軽薄な文学好きの青年」 では 形容詞の係りが曖昧になっていて、きっと、(軽薄な (文学好きの青年) ) という構成でしょう──すなわち、「青臭い文学青年」 という使いかたがされるように、文学好きの青年を軽蔑して呼ぶ称で、「世間知らず」 という意味でしょう。「青臭い」 「世間知らず」 という性質が、上の引用文で述べられている性質でしょうね。

 「文学青年」 であれば、青年期において、小林秀雄氏が 「未成年」 の感想として述べた性質を帯びていたでしょう。私が 「未成年」 を読んだ時期は、大学生の頃であって、30数年前の事です。したがって、「未成年」 の中身を もう忘れてしまっています。ただ、当時、ドストエフスキー の重立った作品を幾つか読んで、彼が描いた人物の性質において、私のなかにも幾分か似ている属性を感じていました。ただ、小林秀雄氏が云うような 「私たちに酷似しているのを見て、他人事ではない気がした。まるで自分が手玉に取られているような想いのする」 まで実感があったかといえば、はなはだ怪しかったと思う、つまり、私は 当時 世間を斜に観ていた 「軽薄な文学好きの青年」 にすぎなかったということ。当時、私は ロシア 文学・フランス 文学および西洋哲学などの書物を読み漁っていて、小林秀雄氏の云うように 「西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点」 で、まぎれもない 「軽薄な文学好きの青年」 でした。唯々、モヤモヤ とした 「正義感」 「憤怒」 のなかで燻 (くすぶ) っていました。しかし、青年が──なにがしかの行動をしたいと思いながらも、なんら社会的な座標を持たない青年が、世間を観て──「正義感」 「憤怒」 に揺さぶられないほうが奇怪なように私には思われます。

 長男 (20歳) が高校三年生の頃、「罪と罰」 を読んでいるのを私は観て──勿論、長男は 「罪と罰」 を読んでいることを私に話した訳じゃないのですが、「罪と罰」 が彼の机の上に読みかけのまま置かれているのを私が観て──私は北叟 (ほくそ) 笑みました。そして、私は、還暦を間近にして、今も 「文学青年」 です。ただし、小林秀雄氏が上で述べた意見を実感して回想できる 「文学青年」 です。

 
 (2011年 7月 1日)


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