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You will look for me, but you will not find me,... (John 7-34)

 



 小林秀雄氏は、「故郷を失った文学」 のなかで以下の文を綴っています。

    (略) 社会の秩序と無秩序の問題が今日くらい明瞭に表れ
    て来た事はなかった。従って当然今日は回顧的な心は未来
    への念願のために、思想は行動のために、情感は思想のため
    に、事実は理論のために、平凡は冒険のために、圧倒される。
    一と口に言えば青年的性格が社会の表面に現れて、円熟した
    精神の価値が低下してみえて来る、と言えるであろう。そう
    いう事情の下で文壇がますます若い者相手の特別な世界と
    なるのは当然だし、またこの事が文学の価値を疑う理由とも
    ならない。ただ、私は元来文学が社会に齎す利益は、それが
    社会に流す害毒と同じくらい大きいと思っているが、今日の
    ような時代では害毒の方が少々大きくならざるを得ないの
    じゃないかと考える。

 文中で言及されている 「害毒」 は、この文に後続する文のなかで綴られているのですが、きょうは、ここまでを対象にして 「文学」 を考えてみたいと思います──否、そういうふうに述べられた 「文学」 を ダシ にして、或る観念を検討してみたいと思います。

 「青年的性格」 を小林秀雄氏は、次の ことば を使って要約しています──「未来的な念願」 「行動」 「思想」 「理論」 および 「冒険」。逆に言えば、「円熟した精神」 は、それらの ことば に対比させて、「回顧的な心」 「思想」 「情感」 「事実」 および 「平凡」 という ことば で言及されています。興味深い点は、「思想」 が いずれにも現れているという点です。その 「思想」 の ねじれ ぐあいが、「思想は行動のために、情感は思想のために」 として暴かれています。青年にとって、「思想」 は、「行動」 のための口実であるのかもしれない──「私は近頃になってやっと、次の事が朧気 (おぼろげ) ながら腹に這入 (はい) ったように思う。それは青年にとってはあらゆる思想が、単に己れの行動の口実に過ぎず、思想というものは、いかに青年にとって、真に人間的な形態をとり難いものであるか、という事だ」 (「現代文学の不安」)、「社会事情の逼迫 (ひつぱく) に強いられた行動の口実たる思想に過ぎなかったのだ。この思想は正しいかもしれないが、単なる正しい思想ではなんの自慢にもならない。彼らには思想さえ正しいとわかれば、これに人間的形式を与えるのはもう無用なのである。彼らはこの精神を肉化するあらゆる方法を放棄している。彼らは作家を廃業して理論家として政治家として言う、私にはもっとちがった文学がある、と。いつまで文学に恋々としているのだろう」 (同)。そして、それらの 「行動」 が 「未来的な念願」 を底にした 「冒険」 として現れたら四辺を圧倒するにちがいない。青年の 「思想」 を そういうふうに観る眼は、成熟した精神が獲得した慧眼なのでしょうが、私は、そういう慧眼に少々反抗を覚えます。勿論、小林秀雄氏も、それを 「回顧的」 に語っているはずです──かれの作品 「ランボオ」 を読めば、それがわかるでしょう。

 小林秀雄氏が揶揄している 「青年的な思想」 とは、前回の 「反文芸的断章」 で引用した 「ことに描かれた青年が、西洋の影響で頭が混乱して、知的な焦燥のうちに完全に故郷を見失っているという点で、私たちに酷似しているのを見て、他人事ではない気がした。まるで自分が手玉に取られているような想いのする場面に方々でぶつかった」 態の思想です。すなわち、「実感にもとづいて咀嚼された」 思想じゃないということ、「借り物の」 思想だということ。では、「実感」 とは いかなる状態かと言えば、外 (そと) に存在する巨大な思想を じぶんの中に取り込もうという戦い──じぶんが立っている時空の中で、じぶんを実験台にした戦い──ではないかしら。逆に言えば、個人の感性・思考が消えてしまった思想など──「思想」 が概念的に現れて、個性が見えない状態など──、嘘にちがいない。小林秀雄氏は、この 「実感」 を論点にしています。

 しかし、われわれは、現代社会において── social media のなかで、じぶんを語るに忙 (せわ) しい現代において──、じぶんが向きあう 「思想」 の存在を感じていないのではないかしら。テクノロジー が便益を齎す社会のなかで、「思想」 は なにかしら衣裳のようになってしまって着用するには古着になって、思想史の陳列台に並べられて批評の対象にしかなっていないのではないか、「人間的形式を与えるのはもう無用」 だと思っているのではないか。向きあうべき 「思想」 は、依然として古典の側にある──「いいね!」。

 
 (2011年 7月 8日)


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