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Your words will be used to judge you──. (Matthew 12-36)

 



 小林秀雄氏は、「故郷を失った文学」 のなかで以下の文を綴っています。

     何事につけ近代的という言葉と西洋的という言葉が同じ意味を
    を持っているわが国の近代文学が西洋の影響なしには生きて来ら
    れなかったのは言うまでもないが、重要な事は私たちはもう西洋
    の影響を受けるのになれて、それが西洋の影響だかどうか判然し
    なくなっている所まで来ているという事だ。(略) 一時代前には
    西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心
    事となっていた、彼らがまだ失い損ったものを持っていたと思えば、
    私たちはいっそさっぱりしたものではないか。私たちが故郷を
    失った文学を抱いた、青春を失った青年たちである事に間違い
    はないが、また私たちがこういう代償を払って、今日やっと西洋
    文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめたのだ。西洋
    文学は私たちの手によってはじめて正当に忠実に輸入されはじめ
    だのだ、と言えると思う。こういう時に、いたずらに日本精神だと
    か東洋精神だとか言ってみても始まりはしない。どこを眺めても
    そんなものは見つかりはしないであろう、また見つかるようなもの
    ならばはじめから捜す価値もないものだろう。谷崎氏の東洋古典
    に還れという意見も、人手から人手に渡る事の出来る種類の意見
    ではあるまい。氏はただ、私はこういう道をたどってこういう風に
    成熟したと語っているだけだ。歴史はいつも否応なく伝統を壊す
    ように働く。個人はつねに否応なく伝統のほんとうの発見に近づく
    ように成熟する。

 この文を読んで、私は、かつて読んだ江戸文学の文を思い起こしました──「手の中 (うち) の菓 (このみ) を人に与ふる如くに非ず」 (色道小鏡)、現代訳なら 「手に持っている菓子を他人に与えるような事じゃない」 と。一人の精神から産まれた思想を伝える事は、正に 「菓を人に与ふる如く非ず」 事なのですが、思想は言葉に依って伝えられるがために、うっかりすると思想が 「菓を人に与ふる如く」 伝わるように錯覚する。というか、そういう錯覚が、「わかりやすく、てっとりばやく」 習得する やりかた のなかで常態となっているのではないかしら。凡そ 思想 (あるいは、精神) の論において、誰にでもわかりやすく論理的に語ることを私は下衆 (げす) いと感じています。

 
 (2011年 8月 1日)


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