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So they are no longer two, but one. (Matthew 19-6)

 



 小林秀雄氏は、「批評について」 のなかで以下の文を綴っています。

     なるほど ジイド の言葉は取りつく島もないみたようなあんばい
    だが、また作家がこういう覚悟でいてくれなければ批評家はその
    作品を読むに堪えぬであろう。極く自然な矛盾の一つである。

     人の心は問題の解決をいつも追っているものかも知れぬが、
    矛盾の解決によって問題を解決しようとは必ずしも希っては
    いない。生活意欲というものはむしろ問題を矛盾したまま会得
    しようと希っているし、事実それを日々実行している。この根強い
    希いが芸術を生み、これを諒解する。自然が問題を矛盾したまま
    解決してみせているように、芸術は問題を矛盾したまま生かして
    いる。ジイド の解決という意味は、結局こういう処に落着くので
    あるが、批評家はこの 「充分な解決」 を前にして、新たに問題
    を仮定し、これを別様に解決する。ここに作家と批評家との間の
    尋常な正当な主従関係があると私は信じている。批評は作品
    を追いこす事は出来ない、追い越してはならぬ。これを一つの
    批評態度としてひとえに退嬰 (たいえい) 的だとか人間進歩の
    敵だとかと考えるのは、未だ考えが足りないのである。態度では
    ない、そういう極く自然な矛盾が在るのだ、矛盾した事情がある
    のだ。そして矛盾というものはこっちの心構え一つで目障 (めざ
    わ) りになったりならなかったりするものである。

     この作家と批評家との主従関係は、勿論いつも守られていると
    は限らぬ。現今のような世に、批評家が作家を乗り越えようとし、
    作家の創作活動を指導しようと努めるのは已むを得ない勢いだ。
    なるほどこの道は正当には違いないが、それは已むを得ない勢い
    である限り正当なのだ。この勢いを過信するのは正しくない。時代
    的な実際的な思想に生きる人もあるし、もっと悠久な境地に心を
    寄せる人もあるので、作家がみんないわゆる進歩的になられたら
    恐らく芸術などは不必要になるだろう。同様に、我田引水めいた
    意味にとられては迷惑だが、批評の出来ない批評家がいなかった
    日には、批評は何処まで突っ走るか知れたものではない。

 作家は、じぶんを 「晒す」 だけである──じぶんを因 (とりこ) にした事態を凝視して、それを生捕 (いけど) りにしようとする。ジード 氏が云う 「解決」 とは、科学的な ソリューション ではなくて、事態を あるがままに生捕りにした状態を云うのでしょうね、だから、(事態が矛盾を内包していれば、) 矛盾を あるがままに包摂している。矛盾を包摂したままの 「調和した」 総体感が芸術の伝える メッセージ かもしれない [ 私は、じぶんの言いたいことを適確に伝えているかしら、、、]。もし、そこに ソリューション を持ち込めば、芸術作品とは違う物になるでしょうね。芸術の 「表現」 とは──あるいは、芸術に限らず、「表現」 というふうに一般化してもいいのかもしれないのですが──、じぶんを晒す他に伝達法ないでしょう。少なくとも、私は、「作家がこういう覚悟でいてくれなければ」 作品を読み通す気になれない。

「批評家が作家を追い越してしまう」 という現象を、職業的批評家について小林秀雄氏が述べているので、私は批評家じゃないし、彼の言に付け足す意見を持っていない。ただ、彼が指摘した現象の他にも、いわゆる 「深読み」 という珍現象を私は多々目にしてきました──本人いっぱしに じぶんの分析の鋭さを披露するために 「深読み」 してしまう、批評の陥穽 (かんせい) の一つでしょうね。そういう連中を私は わんさと観てきました。しかし、それは、活溌な思考が一度は落ちる罠かもしれない。ただ、「それは已むを得ない勢いである限り正当なのだ。この勢いを過信するのは正しくない。時代的な実際的な思想に生きる人もあるし、もっと悠久な境地に心を寄せる人もある」。文脈のなか (from within) で意味を把握するということは、そう簡単な事じゃない。終 (つい) 文脈を無視して じぶんの才識を批評として披露したくなる小悧巧さが鎌首を擡 (もた) げる。作品を作品として読むことが いかに難しいか、、、「正当な鑑賞」 言い替えれば 「正当な批評」 は、とても難しい。しかし、「正当な鑑賞」 という手続きは、果たして存在するのかしら [ 批評家に訊いてみたい ]。

 私は、文芸批評家じゃないので──作品ごとの批評をもとめられている訳じゃないので──気に入った作家の全集 (あるいは、選集) を買って、気長に つきあって対話するという読みかたしかしない。そういう つきあい であれば、批評は二の次に後退する。もし、作家を批評するとしても、作家の綴った思いと私の生活とを照らして感想を謂うに止 (とど) まる。相手は天才たちである、私が足下にも及ばない。そうであれば、批評の罠に落ちることもないので、気長に読書できる。芸術と つきあうには、そういう気長さも要るのではないかしら。

 
 (2011年 8月23日)


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