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You will look for me, but you will not find me,... (John 7-34)

 



 小林秀雄氏は、「批評について」 のなかで以下の文を綴っています。

    (略) 画や音楽の鑑賞も一度これらを文学化して解釈すれば
    忽ち複雑を極めたものになって来る。その相貌の多種多様に
    眩惑を感ずる事は、さして問題ではないとしても、その理解が
    現実生活の理解に密接に結ばれているという処が、一番面倒
    な処だ。例えば私が ランボウ を読み始めた頃は、その歌声の
    美しさや強さはわかったが、彼がわれ知らず表現した青春と
    いうものの苦 (に) が苦 (に) がしさはわからなかった。
    ボオドレエル を読み出した頃、虚無とか悒愁 (ゆうしゆう)
    とか神とかいう文字は理解したが 「恋愛とは売春の趣味だ」
    というような言葉の底意はわからなかった。そしてどんなに
    未だ沢山わからないものがあるかと思うと楽しみである。人間
    の生活を一番よく知っている人が一番立派な文学作家なのだ。
    私はもうそれを信じて疑わない。他はみんな附けたりだ。それ
    でなくて何が文学というものが面白かろう。文学だと思って
    読まなければ面白くないような文学は私はもういらない。文学
    の害毒を知り抜いた上書かれたものでなくては信用する気に
    はなれない。拙い作品を拙いとは言うまい、拙いと考える代り
    に文学の人心に及ぼす害毒の一例と考えたいと思う。

     この世を如実に描き、この世を知りつくした人にもなお魅力
    を感じさせるわざを、文学上の リアリズム と言う。これが
    小説の達する最後の詩だ。文学上の リアリズム について、
    いろいろ異なった解釈があるような事を言うものもあるが、
    恐らく巧みな嘘にすぎないのである。

 上に引用した文は、「批評について」 の最後に綴られています。「文学論」 という論が もし存するのであれば、そして、「文学上の リアリズム」 を論ずるのであれば、私は、小林秀雄氏の意見に共感します。そして、この点にこそ、小林秀雄氏が指摘しているように、「文学の害毒」 も存するのでしょう──小説を読んで、社会をわかったつもりになる、と。

 私は、たぶん、文学を 「作家が己れの精神を晒した自叙伝」 として読んでいるのかもしれない──作品 (小説) が たとえ 巧みな フィクション であっても、作家が制作するからには、作家の精神の中で産まれるので。勿論、作品は制作物であるので、作品に綴られている事を そのまま作家の思想であると速断するほど私は呑気じゃない、作品の魅力は、作家の視点 (主題)・構成力そして 「文体」 に存するでしょうね。「文体」 が作品のすべてを包んで作家の人生観 (人生をみつめた思い) を物語る。

 職業的作家が物する文と われわれが綴る文との究極の相違点は、「文体」 に存するのではないかしら。そして、「文体」 は、「自分を凝視した」 極際で工夫されるのではないかしら──私は職業的作家ではないので、「文体」 について語るほどの才識を持っていないけれど、私が読んで来た作家たちは、いずれも、自分を凝視した果てに独自の文章の特色 (傾向) を表していると私は感じています。したがって、文学は余暇にできる嗜み事じゃない。そして、文学に専念しても費やした労力に見合う報酬を入手できる訳でもない。そんな文学に魅惑されるという事には、一体、どういう事由があるのか──「文体」 が伝える 「理屈のない魅力」、それが文学の魅力なのでしょうね。

 文学作品が私を揺すぶっても、私の生活の中で具体的な反響 (形、かたち) が直ちに顕れる訳じゃない。しかし、作家の精神に感応すれば、私の精神の上に なにがしかの波紋 (畝り) が拡がるのは確かです。したがって、文学作品を読んだ後の私は以前の私に止 (とど) まることはない。唯々、作品に運ばれてゆくのみ、「文学だと思って読まなければ面白くないような文学は私はもういらない」。そして、作家の体温 (文体) を感じられない作品に私は惹かれない。

 
 (2011年 9月16日)


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