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You are like whitewashed tombs, which look fine on the outside... (Matthew 23-27)

 



 次に引用する文は、前回および前々回に引用した文をいっしょにした文です。これらの文を違う観点で再度考えてみます。

     僕は幽霊の正体をみよ、と言うのではない。要らざる幽霊
    をでっち上げるな、と言うのだ。同情するにせよ、軽蔑する
    にせよ、何故に二、三の文芸雑誌が増加したという平凡な
    事実から、その事実のみからものを言わぬ。弥次馬のこしら
    えた幽霊を分析して、枯尾花を見せてくれたり、「非常時」
    を見せてくれたりして一体誰が感心する。ましてやこの幽霊、
    実は弥次馬のこしらえたものではなく、どうやら当の批評家
    が知りつつ便宜上発明したものと疑えるに至っては沙汰の
    限りだ。想えば批評家気質というもの、よほど奇妙なもので
    ある。

     毎年十二月に這入(はい)ると、新聞雑誌の批評欄は、宛然
    (えんぜん)この白ばっくれた批評家気質の展覧会たる趣きを
    呈する。ああ、今年は多事であったと。嘘をつけ。最も重要な、
    あるいは最も繊細な文学的問題を提供したものは君らじゃない
    のだ。君たちは提供したというよりもむしろそういう問題を殺し
    て来たのではないか。

     様々な問題が無秩序に次から次へと提出されるという事は、
    今日のような不安な時代の特色であり、そしてまた、問題が
    甚だ傷つき易い壊れ易い形で提出されるという事が、今日の
    様々な問題の特色だ。歪めるにも殺すにも手間はかからぬ。
    或る問題が現れる、皆んなが寄ってたかって解決しようと
    かかる。ところが当の問題は、解決されようにも問題の形を
    まだ成してはおらぬという始末だ。未だ形をなさぬ問題に
    既に解決がある。──文字通り珍妙な事実の写実であって、
    言葉の戯れではないのである。

 この文を私は Twitter で借用しました。借用した理由は、ここに綴られている現象は、そのまま コンピュータ 業界の 「事業 システム の分析」 (あるいは、モデル) を論じている界隈に観られるので。

 さて、本 エッセー は 「反 コンピュータ 的断章」 向けの エッセー ではないので、話を 「反文芸的断章」 向けに戻して小林秀雄氏の所思を考えてみます。

 「僕は幽霊の正体をみよ、と言うのではない。要らざる幽霊をでっち上げるな」 という彼の憤怒は、彼の デビュー 作 「様々なる意匠」 で底流になっているので、その所思そのものを私は目新しいとは思わなかったのですが、それを綴る 「文体」 は、さすがに見事ですね。この所思は、彼の すべての作品の中で下地になっています。べつの言いかたをすれば、「私はこういう符牒に信用を置かない男だ。符牒に信用を置かないという事が批評精神というものだと信じているものだ」 (「アシル と亀の子 T」)。

 しかも、でっち上げられた 「幽霊」 に対して、「皆んなが寄ってたかって解決しようとかかる。ところが当の問題は、解決されようにも問題の形をまだ成してはおらぬという始末だ。未だ形をなさぬ問題に既に解決がある。──文字通り珍妙な事実の写実であって、言葉の戯れではないのである」。勿論、その 「解決」 も 「幽霊」 です。

 「概念←→言語←→現実」 という関係の中で、頭のいい一人が 「現実を総括する『概念』」 を示せば、他の人たちが寄ってたかって その 「概念」 を演繹して様々な意匠を纏った 「概念」 が増殖する。それらの 「概念」 が常に 「現実」 に対して験証されれば 「幽霊」 にはならないのだけれど、「芸術」 という宇内 (うだい) では、「概念」 の実存を証明 (験証) できない──たとえば、「美」 は感知されても験証できない、品定めの物指しがない。だから、「幽霊」 が跋扈できる。そして、「概念」 が 「現実」 を象嵌する──作品が 「名称 (「概念」)」 によって或る ワク をはめられる、たとえば、××派とか ○○主義とか。そして、それを反証するのが難しい。しかし、「世界から退避するには、芸術によるのがいちばん確実だが、世界と結びつくのにも、芸術によるのがいちばん確実である」 (ゲーテ)。

 芸術作品とは、近松門左衛門の謂うように、実と虚とのあいだに存する皮膜なのかもしれない (「難波土産」)。私は、十代後半から今に至るまで、いわゆる 「純文学」 を読んできましたが、作品について 今になって 次の所感を やっと実感できる── 「表現の固有性ということが、すべての芸術の初めであり終りである」 (ゲーテ)。したがって、私は、個々の作品を離れた演繹的概評を信じない。小林秀雄氏は、それを次の見事な文で言い尽くしています (「当麻」)。

    美しい花がある。「花」 の美しさという様なものはない。

 この ことば を私は二十代のときに読んで感奮しましたが、それが実感となるには三十年かかった。頭が眼を騙す──このことを簡単に気づいてもよさそうなことなのだけれど、実感となるのは難しい。

 
 (2011年10月 8日)


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