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we have opened our hearts wide. (2 Corinthians 6-11)

 



 小林秀雄氏は、「文学界の混乱」 の中で以下の文を綴っています。
 説明の便宜上、それぞれの段落に番号を付与しておきます。

    [ 1 }
     矢崎弾氏が、僕を評して裁断を嫌う精神と書いていた。
    だが一体君は裁断を嫌う精神とはどういうものか知って
    いるのか。良心をもって知っていると言うか。これは理屈
    じゃない。君の評言の暗示する限り、君の意味する裁断
    を嫌う精神などというしゃれたものを、僕は義理にも持ち
    合わせてはおらぬのだ。

    [ 2 ]
     僕は批評に限らず、すべてのものに対して懐疑的だが、
    自分の懐疑を楽しんだ事はない、楽しむ余裕なぞ持った
    事はない。僕は自分の精神の様々な可能性を出来るなら
    一つ残らず追求してみたいという不遜 (ふそん) な希い
    にかられているだけだ。僕の精神に懐疑的な相を強いる
    ものはこの希いだけだ。僕は自分の懐疑を消極的に解釈
    する事も、解釈される事も好まぬ。

    [ 3 ]
     僕は何よりも先ず自分の意識を大事にして来た男だから、
    今それが手がつけられないほど無秩序な有様になっている
    事をよく知っている。その有害無益な複雑さも、非生産的な
    精巧さも、逆説的な欺瞞も、詐術もその陶酔も幻滅も目の
    とどく限り知悉している。しかし僕はこれについて一度も自ら
    恥じた事はない。 (略)

 私は、この引用文を身につまされる実感の中で読みました。小林秀雄氏が この文を公表した時期は 1934年なので [ 文藝春秋一月号 ]、彼が 32歳くらいの頃です。彼は 32歳にして この 「文体」 を持っているのだから、彼と同じ所思を還暦に近い私 (58歳) が持っていても、私は これほどに見事な文を綴ることができないので、私は彼を天才としか云いようがない。

 特に、[ 3 ] で書き下された 「無秩序な有様」 は、文頭において、彼が 「僕は何よりも先ず自分の意識を大事にして来た男だから」 と言い切っているとおりに、自らを 「目のとどく限り知悉している」──歪みのない凝視力ですね。試しに、[ 3 ] の文を伏せて、眼を閉じて、[ 3 ] の文を思い起こしながら それを再現してみればいい、文を読んだ時には順を追って認知できた 「概念 (心象)」 が ことば に結びつけ難いでしょう。それらを結びつけるのが 「文体」 です。故に、彼の 「文体」 は、心象を彫塑するような力強い個性なのです──力強いという意味は、「精神を精神で直に観る」 という行為 (凝視力) の中で、精神的事象を出来る限り正確に記述するということ。そして、「無秩序な有様」 を凝視し続けるためには、並並の逞しさじゃ耐えられない。文字通りに 「批評家」 たることは、難儀な事なのでしょうね。私には覚悟がなかった。

 「裁断を嫌う精神」──あまりに巧みな要約には、とかく用心を払わなければらないでしょうね。きちんと決められた (決めつけられた?) 「概念」 は、われわれを欺くことが多い。第一級の頭脳は ジッ としているはずがない、それを寸言に要約して鎮座させることは土台 不可能でしょう。
 [ 1 ] と [ 2 ] を読んだ時、私は ヴァレリー 氏の ことば を思い起こしました (「レオナルド・ダ・ヴィンチ の方法 序説」)──

    存在するものの錯雑する中に入りくるものの何一つ、たとえ
    一木一草たりとも忘れぬように出来ている人間である。

    森羅万象が測量標になっている。

 小林秀雄氏には、彼の 「精神」 的事象の すべて が測量標になっていた、と想像して間違いはないでしょう。「裁断を嫌う」というような測量を軽視した態じゃない。小林秀雄氏は、つねに、批評家として (精神的事態の) 測量を心掛けていました──「解析の眩暈の末」 という語を彼は好んで使っています (「様々なる意匠」、「アシル と亀の子 V)。「解析の眩暈の末」 まで往かない批評こそ、彼の嫌った行為です。

 
 (2011年10月23日)


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