このウインドウを閉じる

I cannot talk with you much longer,... (John 14-30)

 



 小林秀雄氏は、「レオ・シェストフ の 『悲劇の哲学』」 の中で以下の文を綴っています。

    レオ・シェストフ 「悲劇の哲学」 (河上徹太郎、阿部六郎共訳)、
    最近われを忘れて通読したただ一つの文学的論文であった。

     正宗白鳥氏が、この本について 「読売」 紙上に書いていた
    が、批評らしい批評も感想らしい感想も書いてはなかった。
    しかし、この本をくりかえし三度読んだと明らかに書き、自分が
    かねがね漠然と考えていた事が、この本にも漠然とかかれて
    いたと不興気に言っているだけだったが、僕には氏の心事は
    推察出来るように思った。恐らく氏は、この本の毒にあたる
    には、自分の身体が既に充分毒を吸っていると感じたので
    あろう。また一読して何か言うよりも三読して黙っていた方が
    ましな本だと感じたのであろう。

     この書は語り難い。なるほど シェストフ の思想を十九世紀
    思想の一典型と考える事は出来る。だが、それはそう見做し
    たい人にそう見えるに過ぎぬ。実際のところはただ一人の
    人間の叫びが聞えるばかりなのである。作者は学者的良心
    や理論的妥当性を破るのをびくびくしてはいない。そんなもの
    を気に掛けていては到底語り切れぬものが語り切られている。
    (略)

 私 (佐藤正美) は、シェストフ の 「悲劇の哲学」 を読んでいない。ひょっとしたら、大学生の頃に読んでいたかもしれないけれど──こういう類の文学書・哲学書を私は大学生の頃に多数読んでいたので、この書物が読書 リスト の中に入っていなかったということは想像しにくいのですが──、「悲劇の哲学」 は私の記憶の中に存していない。小林秀雄氏が 「最近われを忘れて通読したただ一つの文学的論文であった」 と綴っているほどの書物なのだから、私の記憶にないのは、おそらく、私は読んでいなかったと判断するのが正しいでしょう。そして、私は、今、その書物を読みたいとも思わない──もし、私が読んだとしても、正宗白鳥氏と同じように振る舞う [ 直接の所見を述べない ] でしょう。

 上の引用文の中核概念は、「ただ一人の人間の叫びが聞えるばかりなのである」 という文でしょうね。小林秀雄氏がそう言っているのだから、きっとそうでしょう。私は、そういう書物として 「ウィトゲンシュタイン の日記」 を読ました──そして、ウィトゲンシュタイン 氏の日記については、小林秀雄氏の ことば を借りれば 「一読して何か言うよりも三読して黙っていた方がましな本だと感じた」 のです。そういう書物を幾冊も読むのは辛い、、、だから、私は、シェストフ 氏の 「悲劇の哲学」 を読みたくない。

 ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を語る人たちは多いのですが、ほとんどの人たちが (「論理哲学論考」 に示された) 「前期の」 哲学に依って 「論理」 を語ろうとしていますが、どうして、(「哲学探究」 に示された) 「後期の」 哲学に真っ向から取り組もうとしないのかしら、、、そして、「後期の」 哲学と向きあうのであれば、かれの 「(晩年の) 日記」 を外せない。小林秀雄氏は、次の文を綴っています──「精神を精神でじかに眺める事、いかなる方法の助力も借りずに、精神の傷の深浅を測定する事、現に独創的に生きている精神で、精神の様々な姿を点検する事、一言でいえば最も現実的な精神の科学、この仕事を文学にたずさわる人々がやらないで誰がやるか」 (「年末感想」)。事は哲学者でも同じでしょう。ウィトゲンシュタイン 氏の日記を私は読んで次のような心象が浮かびました──人里から離れた小屋の中で 「精神を精神で直に凝視する」 峻烈な仕事に疲れて家外に出た時に、濃い靄に覆われた外界では太陽が朧ろだが確かな光輪として存在している。「あるがまま」 の状態、そういう状態に仰天すれば、「神よ!」 と絶句するしかない [ かれは、明らかに絶句している ]。

 ウィトゲンシュタイン 氏の文は上質の文学作品だと云われているそうですが──私は ドイツ 語を読めないので英語訳・日本語訳を通して、ウィトゲンシュタイン 氏が意図していたことから推断するのですが──、当然のことではないかしら、哲学 (汎化) と文学 (特化) を切り離すことなどできやしない──実際、かれは次の文を綴っています、「哲学は、本来的に、ただ詩作としてのみ書かれるべきである」。かれの文が文学的だというのは修辞の技術じゃない、「ただ一人の人間の叫び」 を全体感として伝える文体でしょう。或る意味では、そうとうな 「毒」 をふくんでいる。「作者は学者的良心や理論的妥当性を破るのをびくびくしてはいない。そんなものを気に掛けていては到底語り切れぬものが語り切られている」。そういう書物を読めば、「一読して何か言うよりも三読して黙っていた方がまし」 でしょうね。そして、その沈黙は、共感であっても、勿論 黙殺ではない。ウィトゲンシュタイン 氏の哲学を論ずる人たちが 「論理哲学論考」 に関して多く言及しても、「哲学探究」 に関して言及するのが少ないというのは、ひっとしたら、そう (「一読して何か言うよりも三読して黙っていた方がまし」 というふうに) 感じているのかもしれない。ちなみに、私は、小林秀雄氏の気質の中に、ウィトゲンシュタイン 氏の気質に似たものを感じています。

 
 (2011年12月16日)


  このウインドウを閉じる