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Go away from me, Lord! I am a sinful man! (Luke 5-8)

 



 小林秀雄氏は、「レオ・シェストフ の 『悲劇の哲学』」 の中で以下の文を綴っています。今回引用する文は、「レオ・シェストフ の 『悲劇の哲学』」 の後半なのですが、とても引用しにくい──抜萃引用すれば、小林秀雄氏の熱弁 (憤怒、意気込み) が伝わらない怖れがあるのですが、敢えて引用してみます。

     十九世紀の強烈な実証精神のあとをうけて科学は依然として
    思想界に君臨している。人はその真理探究をいよいよ非人間
    的な秩序のうちに実現しようと努めている。真理探究の方法を
    真理実現の形式を、いよいよ科学の教える処に仰ごうと努めて
    いる。科学者が ニュウトン を捨てたと言えば、思想家は カン
    ト を捨てたと言うのだ。

     「あらゆる哲学はいわば哲学者の回想録であり意図しない
    告白だ」 と ニイチェ が悲し気に言った時、確かに彼は、哲学
    がその純理的構造にもかかわらず、作者の個人的影を余儀
    なく曳摺 (ひきず) っているものだという事情を理解していた。
    しかし重要なのは次の事だ。彼がこういう言葉を吐いたのは、
    何も哲学の弱点をつついてみるためではなかったのだ。また
    この弱点は一流哲学にあっては、むしろかえってその生彩
    その説得力を成す事を仄 (ほの) めかすためでもなかった。
    彼は美も道徳も真理も恃 (たの) むに足らぬという人間的
    智慧の或る領域を感じていたのだ、凡そ哲学的智慧とは別種
    の智慧について考えていたのであった。

    (略) ニイチェの言葉を、シェストフ はもっと荒々しく引延ばす。
    「哲学大系の中には、つきつめれば懺悔の他に、(略) 生活に
    よって何らかの疑惑を喚 (よ) び醒 (さ) ますすべての人々
    に向けられた告発である」 と。(略) 彼は毒の原料を昔から
    そこら辺に生えている雑草から選んでいないか。(略) もしこの
    疑惑が観念上の疑惑にとどまるならば無意味であろう。だが
    この疑惑の具体化を日常四辺に眺めたらどうするか。

    (略) 素朴な驚嘆と残酷さのないところに真の リアリズム は
    あり得ないと思う。

    (略) 何故に作家の リアリズム は社会の進歩なるものを冷笑
    してはいけないのか。作家の リアリズム とは社会の進歩に対
    する作家の復讐ではないのか。復讐の自覚ではないのか。
    人間文化の持つ強烈な一種の アイロニイ ではないのか。現存
    するあらゆる愚劣、不幸、苦痛を、未来の故に是認することを
    肯 (がえん) ぜぬ リアリズム 精神の上に、果たして社会の
    進歩が築かれ得るか。

    「ゴオゴリ が 『死せる魂』 の第二巻の草稿を焼きすてた時、人
    は彼を発狂したと宣告した──それ以外に理想を救うすべが
    なかったのである。(略) これは理想主義者等は決して承認し
    ようとはしないであろう。彼らには ゴオゴリ の 「作品」 が必要
    なので、ゴオゴリ その人、同様に彼の 「大いなる挫折」、彼の
    大いなる不幸、彼の大いなる醜悪は、彼らに何んの関係もない
    のである」。かかる シェストフ の リアリズム 精神が、文学的
    リアリズム に対して無礼なるものならば、文学的 リアリズム
    は退屈なものである。退屈な プール のうちを作家手法の問題
    が悠々と游ぐのである。

 さて、私が抜萃したこれらの引用文が小林秀雄氏の訴えたい事を伝えたかしら。もし、抜萃した引用文が リアリズム の魂を伝えていないようであれば、原文を読んでみて下さい。これらの引用文に対して、私の下手な註釈など施さないほうがいいでしょう。ただ、一言だけ綴れば、シェストフ 的 リアリズム 精神に充ちた文を エンジニア が綴れば、嫌われることは確かでしょうね (笑)。

 
 (2012年 1月 8日)


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