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For we cannot do a thing against the truth, but only for it. (2 Corinthians 13-8)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。

     寺田寅彦氏が ジャアナリズム の魔術についてうまい事を
    言っていた。「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると
    諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。
    ゆっくり オリジナル な投身地を考えているような余裕はない
    のみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは 「新聞に
    出ない」 のである。このように、新聞はその記事の威力に
    よって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の
    幻像を天下に撒 (ま) き拡げ、あたかも世界中がその類型
    で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることに
    よって、更にその類型の伝播をますます助長するんである」
    (「中央公論」 四月号)。類型化と抽象化とがないところに
    歴史家の表現はない、ジャアナリスト は歴史家の方法を迅速
    に粗笨 (そほん) に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現
    には オリヂナル なものの這入 (はい) り込む余地はない、
    とまあ言うような事は一般常識の域を出ない。僕は進んで
    問いたいのだ。一体、人は オリヂナル な投身地を発見する
    余裕がないのか、それとも オリヂナル な投身地なぞという
    ものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう
    思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び
    出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にも
    オリヂナル なものの這入り込む余地はないのだ。

     オリヂナル なものが実現するのは、架空な世界を置いて
    他にはない。小説の世界とは即ち架空の仮構の世界では
    ないか。歴史家の誠実な抽象化に オリヂナル なものの
    這入り込む余地がないのは、現実生活にそれがなければ
    こそだ。歴史家の眼が、曇っているわけではあるまい。
    僕の言葉を逆説ととらないでくれ。もし君が歴史家と小説
    家の戦をはっきり戦えば、僕の言う事を首肯してくれる
    だろうと思う。(略)

 上に引用した一番目の段落を読んだ時に、私は森■外(「もりおうがい」、「おう」の漢字は、「匚」(はこがまえ)の中に「品」を入れた偏に、「鳥」の旁)の次の文を思い起こしました (「灰燼」)。

     要するに三面記者はどこまでも個人の猿知恵を出すこと
    を避けて、あくまで典型的に書かなくてはならない。女は
    皆 「美人」 である。恋愛は皆 「痴情」 である。何事に
    つけても公憤を発してけしからんよばわりをしなくては
    ならない。クリスト は裁判をするなと言ったが、三面記者
    は何から何まで裁判をしなくてはならない。どんな遺伝を
    受けて、どんな境界に身を置いた個人をつかまえて来ても、
    それを指を屈するほどの数の型にはめて裁判をする。そこ
    が春秋の春秋だるゆえんかもしれない。

 マスコミ 的 「類型化」 については、小林秀雄氏も 「そう言うような事は一般常識の域を出ない」 と云っているように今更ながら私がここで云々すべきことでもないでしょうね。そして、私が マスコミ を嫌う理由の一つは、その 「類型化」 を嫌悪しているので。しかも、その 「類型的な」 記事が記者の 「個性的な」 文体で綴られていれば、いっそう鼻持ちがならない。ただし断っておきますが、私の著作もそういう悪臭を放っているのを認めたうえで、私は言っているのです──(事業を分析する) モデル の技術を記述するのであれば、モデル 技術は当然ながら汎用的技術なので、そういう汎用的技術を個性的な文体で述べるというのは、「オリヂナル な投身地」 を探している事と同じでしょう。だから、私は小林秀雄氏の指摘している事を痛感しています。

 自然言語を使う限りでは、「客観的な」 文などというものを私は信じていない。「客観的な」 文は、図式 (形式的言語) の他には存しないでしょう。そして、私の文体は、(「独断的」 と非難されたり 「マサミ 節」 と称されたりしていますが、) 「類型化」 に対する頑とした レジスタンス です。モデル 技術は 「形式化」 の技術なので、(「数学基礎論」 で整えられた モデル 理論に違反していなければ、) オリヂナル な技術を作ることができる。そして、技術である限りでは具体的な構造を有しているので、技術を説明する文が如何ほど個性的であっても、技術を変質することは起こりえない。そういう領域での仕事を逆手にして、「文学青年」 的 エンジニア が愉しみを感じても不思議ではないでしょう。

 しかし、そういう仕事の中で、私は 「際どい綱渡り」 をやっているという自覚を持っています──小林秀雄氏の云う 「もし君が歴史家と小説家の戦をはっきり戦えば」 という覚悟を濁 (にご) している事を私は自覚しています。その覚悟を実践すれば、戦いの中で私が与するのは──私の願望のみを言うのであれば──、私は今の仕事を辞めるしかない。しかし、私の現実の才識を計量すれば、職業的作家になるほどの技術 (文体) を持っていないし、自信を持って世間の中で使うことのできる技術は モデル 技術しかない。この 「際どい綱渡り」 は、(科学と文学の) 妥協なのか、それとも (科学の進歩に抗う文学に由る科学に対する吟味の) 特性なのか、、、いずれ滑落すれば [ 今の仕事のやりかたを私の精神が耐えられなくなれば ] 妥協だろうし、そうでなければ特性なのかもしれない。しかし、もし特性であったとしても、テクノロジー の進歩を不快に感じる エンジニア というのは 一種 奇怪な風態ですね。

 
 (2012年 2月16日)


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