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Do not conform yourselves to the standards of this world, (Romans 12-2)

 



 小林秀雄氏は、「『紋章』 と 『風雨強かるべし』 とを読む」 の中で以下の文を綴っています。

     近頃長篇小説が要望されているというが、これは当然な事だ
    と思う。今日のわが国のようにいわゆる純文学なるものが極端
    に言えば短篇小説の異名であるような現象は、大衆物といえ
    は髷物 (まげもの) の異名であるような光景とともに、恐らく
    世界に類例のないものである。大衆作家が現代を描こうと努め
    なければ、大衆小説は行き詰るのが目にみえているように、純
    文学作家も長篇に赴 (おもむ) かなければ、決して新しい道を
    ひらく事は出来ぬと僕は考える。今日まで何故に短篇小説が
    書く方も自然に読む方も自然に幅を利かせて来たかというと、
    一と口に言えばそれは思想性の欠如というものだったのである。
    日本の文学が論理的な構造をもった思想というものを真面目に
    取扱い出したのは、マルクス 主義文学の輸入から始まるので、
    恐らくここ十数年来の事で、その慌 (あわただ) しさや苦しさ
    は、自ら書いて来たものを振り返ってみるだけで充分だ。つらい
    事はたった今始まったばかりだと僕は思っている。(略)

 この引用文で主題となっている観念は 「長篇小説と短編小説」 と 「思想」 で、これらの観念が以後 「『紋章』 と 『風雨強かるべし』 とを読む」 の最後まで主調低音となっています。

 私は長篇小説をほとんど読まない──私が読む (日本の) 長篇小説は、その長さが、たとえば、有島武郎氏の 「或る女」 くらいが限度です。それ以上の長さとなれば、たとえば、三島由紀夫氏の 「豊饒の海」 は例外です。私は短篇小説を好んでいます──たとえば、川端康成氏の作品集を愛読しています。思想を雄大に且つ周緻に描いた作品 (長篇小説) を私は嫌いな訳じゃない、というか私の性質は思想を好むほうです。そういう性質にもかかわらず、長篇小説よりも短編小説のほうを好む理由は、たぶん、そういう巨大な思想を仕事の中で接しているので、仕事を離れて文学を味わっている時にも接すれば疲労感を覚えるので嫌がっているのかもしれない。そして、私は、文学作品を じぶんが文章を綴る際の 「表現」 の手本にしていて──私の綴る文は長くても書物を執筆する時に、せいぜい、800字で 二百数十 ページ くらいの長さしかないので──、細部にこだわった集中的な描写が私の嗜好に適 (かな) う。

 三島由紀夫氏は、長篇・短篇について次のように述べています。

     長編小説の文章が粗雑であっていいというのではありません
    が、それにはおのずから呼吸 (いき) の長さと、感情と思想
    とが、えんえんと読者の胸のうちに流れこむだけの持続力が
    なければなりません。あまりにも鋭敏な感覚で、しかもあまり
    にも詩的に洗練され、あまりにも集中的効果が続けざまにあら
    わて、あまりにも美しい自然描写が凝らされ、あまりにも細部
    にこだわりすぎた文体は、長編小説には適さないし、気質的に
    そういう文体をもった作家が、長編小説を書くということは、
    難行苦行に類することであります。

 川端康成氏の文体は、長編向きではないでしょう。もし、あの文体で長篇作品を執筆できたとしても、読み手のほうは疲れるでしょうね。梶井基次郎氏・小林秀雄氏の文体も、そうだと思う。

 私は、仕事では、モデル 論を主題としているので、ひとつのまとまった思想と常に向きあっています。システム という観点で思想を調えるので、全体と それを構成する それぞれの部分は無矛盾であるように構成されていなければならない [ おそらく、この構成法は長篇の文学作品でも同じでしょう ]。拙著 「T字形 ER──データベース設計技法」 (SRC 社刊、1998年) の 「はしがき」 の中で私は次の文を綴りました。

     思想とか体系とかいう言葉が、以前ほどに信用されなくなった
    現代においては、技巧とか多数派の形勢とかが注目を得る可能
    性が高い。プログラム 作成に付着した「属人性」から脱却して、
    エンジニアリング (工学技法) を構築するためには、まず、技巧
    の完璧性と技巧の共有化のほかはなかったのである。つまり、
    技巧の共有 (多数派の形成) は、機械化を狙う現代において
    当然の要請であった。逆に言えば、自ら考えることをしなくても、
    確立された技巧に従えば、物事を完成できる、という錯覚が忍び
    込む余地は大きかったのである。技巧万能の現代が、「体系」 と
    か 「思想」 とかを嫌悪し軽視する傾向にあることを理解できるが、
    息の長い体系に耐えることができない、という点に、現代精神の
    弱さを筆者は感じる。この点に、現代の SE 教育の難しさがある、
    と筆者には思われる。

 この拙文を読み返してみて、文の拙さに赤面するけれど、私が訴えたかった事は今も変わってはいない。小林秀雄氏なら、もっと達意の文体で綴ることができるでしょうが、小林秀雄氏の嫌う公式主義を 「エンジニアリング」 と置き替えてみれば、私の指弾している事は小林秀雄氏の考えかたに似ていると思う、だから私は彼に惹かれる。拙著 「T字形 ER──データベース設計技法」 を (2003年頃に?) 絶版にしました。というのは、「T字形 ER法」 を私は出版二年後には もう承知できなくなったので。「T字形 ER──データベース設計技法」 を否定するために、2000年と 2005年に、それぞれ、新たな著作を出版しました。しかし、「T字形 ER──データベース設計技法」 の 「はしがき」 で綴った思いは、以後も (今に至るまで) 変わってはいない。現代では、「息の長い体系に耐える」 ことができなくなったというような生やさしい現象じゃなくて、テクノロジー を使っているつもりでも うっかりしていると、世間に向かって断片的な つぶやき しかできない──アフォリズム (断章) というような高等な知性じゃない──、しかも知識が fingertip で入手できる テクノロジー を使った オペレータ に成り下がる様な危 (あや) うい土壌に我々は立っている。そして、こういう思想をもつ 「文学青年的」 エンジニア も 「社会と個人」 のあいだで危うい曲芸をしている。そういう社会の中で、思想を育む個性たる事は、その困難さを覚る前に、諧謔的な事なのかもしれない。

 
 (2012年 3月23日)


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