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'You began to build but can't finish the job!' they will say. (Luke 14-30)

 



 小林秀雄氏は、「文芸時評について」 の中で以下の文を綴っています。

     横光利一氏の 「紋章」 が今年の文壇を騒がせた。無論騒がせ
    て然るべき作品である。これも各人各説だが、人々が一様にこの
    作品に感じているものは何か。この作品の リアリティ の薄弱さ
    である。不純さである。芸術作品としては失敗だが作者の企図は
    見事だ、と言う。こういう言葉は間違ってはいない。だが興味ある
    点は、こういう今日でこそ平気で通用する言葉だというところで、
    これが二十年前の文壇で言われたら恐らく何んの事やら解るまい。
    また批評家にこんな言葉を吐かせるような作品が世を騒がせる
    などという事は考えられもしなかったのである。

     手腕が企図するところに伴わないという事は、作家尋常の苦し
    みだが、今日のように制作意識が複雑になると、企図から手腕を
    発明しよう、企図で手腕を征服しよう、という パラドックス が各所
    に演じられるのだ。横光氏の場合なぞはその代表的なもので、
    且つ自意識というものに制作の契機を求める作家として当然複雑
    な姿をとって現れた場合だが、マルクス 主義作家の場合には、
    この パラドックス が甚だ簡明な形で現れていたのは今更説くま
    でもない。もっとも転向問題なぞ起って来た近頃、あまり簡明だ
    とは言えなくなって来る傾向があるが。

     林房雄君の 「青年」 が文壇を動かしたのもまたこの作品の リア
    リティ の濃密さにあるのではなかった。その憚 (はばか) りのない
    子供らしい叫び声の張りにあったのだ。僕がこれをとらえて傑作と
    称すると、色んな人が慌てて僕を軽蔑した事はこの間の消息を物語
    るものである。横光氏の場合 氏の リアリティ は作品のうちにある
    というよりもむしろ野心の裡にある、言い換えれば、「紋章」 は何ら
    かの企図によって或る人間情景を描いたというよりむしろ抽象的
    な企図をそのまま肉化した観があるが、「青年」 の場合にしても、
    技術が大きな構図に対して挑戦しているのではない、作者の熱情
    的企図が逆に未熟な技法を救助した場合なのだ。

 一番目の段落で述べられている事 (「芸術作品としては失敗だが作者の企図は見事だ」) に類似する現象を、私が仕事している領域で耳にしました (ただし、私は又聞きであった事を注書きしておきます)──その事を私の Twitter (@satou_masami) で綴ったのですが、「プロジェクト 管理は成功、プロダクト は失敗」 と。小林秀雄氏が 「こういう今日でこそ平気で通用する言葉だというところで、これが二十年前の文壇で言われたら恐らく何んの事やら解るまい」 と述べているように、コンピュータ の仕事でも、「プロジェクト 管理は成功、プロダクト は失敗」 などという事は 1970年代・1980年代では考えられなかった現象です。まっとうな考えかたであれば、プロダクト が失敗したならば、プロジェクト は失敗だったと言うはずです。「プロジェクト 管理は成功、プロダクト は失敗」 などという奇妙な現象は、分業化・専門化の手続きが産んだ パラドックス なのかもしれない。

 凡そ作品──それが文学作品であれ、科学的技術であれ──を制作した事のある人ならば、意図と手腕との ズレ に悩んだ事は、きっと体験しているでしょう。それを感じた事がないというのは、天才か、あるいは 余興でこなせる小細工を作る場合でしょうね。前回の 「反文芸的断章」 で綴りましたが、技術を極限の状態にまで極めるならば長年の研鑽を積んで、その研鑽の中で、苦しみや悦びや疲れや絶望を嫌というほど味わう筈でしょう。絶望感を味わった事のない匠 (熟練) などは有り得ないのではないかしら。しかしながら、我々は、今日 (こんにち)、組織の分業体制の中で、じぶんの技術を極限状態にまで高める状態に置かれていないし、一つの部品だけが高品質であっても異型であれば、一つの システム の中では阻碍作因になる。私は、ここで 「組織論」 を述べるつもりは更々ないのですが、「組織」 は組織 (集合) として高品質を実現する事が使命であって、社員が全員 talented であっても必ずしも組織が高品質にならない事は 「合成の虚偽」 として ロジック では周知の論 (fallacy of dictione) です。

 小林秀雄氏は、林房雄氏の 「青年」 に関して、「技術が大きな構図に対して挑戦しているのではない、作者の熱情的企図が逆に未熟な技法を救助した場合なのだ」 と評していますが、私は身につまされる思いがしました。というのは、拙著 「T字形 ER データベース 設計技法」 (1998年出版) [ 読者のあいだで 「黒本」 と愛称された書物です ] が まさに そういう出来ぐあいの著作だったので。「黒本」 は私が モデル に関して論じた初めて まとまった書物でした。モデル としての未熟な技術が、モデル に立ち向かった一途さに済 (すく) われた著作でした。モデル 技術の拙さを補正するために、私は、「黒本」 の出版二年後に、「黒本」 を否定する著作 (「論理 データベース 論考」) を上梓しています。しかし、「論考」 は逆に技術が前に出て、小林秀雄氏の言を借用すれば、「技術が大きな構図に対して挑戦して」 「抽象的な企図をそのまま肉化した観がある」 著作になってしまった。その後も、2005年と 2009年に、モデル について著作を出版していますが、いまだに、意図と手腕の ズレ に悩んでいる状態です──10数年来、意図と手腕との ズレ [ 手腕が意図を実現できない状態 ] に苦しんで足掻いている (苦笑)。それは制作する宿命だと云えばそれまでなのですが、それでも じぶんの手腕の拙さを歯痒い。

 
 (2012年 5月 1日)


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