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Do not let anyone deceive you with foolish words; (Ephesians 5-6)

 



 小林秀雄氏は、「文芸時評について」 の中で以下の文を綴っています。

    (略) 文学的なあまりに文学的な文学を逃れようとする企図に、
    作家たちは種々な形で苦しんでいる。そして表現した処が、何
    とは知れず身につかぬ、板につかぬのを嘆き、表現したところに
    何かしら力強い体臭の欠けているのに不安を覚えている。審美
    上の苦しみも実生活上に苦しみも、表現の上に昔日の意味を
    持ち得なくなり、個人と社会との相剋が強いる思想上の苦しみが
    作家等を捕らえている。

     こういう時に批評家等が面接する文学の像というものは一体
    どういうものだ。既に文学の像とは言い難いではないか。僕ら
    は批評に対象として、はや明確な文学的 リアリティ を与えら
    れてはいない。在るものは文学じゃない、社会の顔、文壇の顔、
    個人の顔だ、そういう顔が文学という薬味を利かされていろいろ
    な表情をしている光景だ。驚くべき風景である。とてもしみじみ
    とした眼で眺められる風景ではない。そこで 「紋章」 を望遠鏡
    で見れば、「青年」 を顕微鏡で覗 (のぞ) くという具合な技巧
    を使用して、わずかに身の安全を計ろうとするのもまた止むを得
    ない。作家の苦痛を軽んずるのではない。自分の位置を嘆くの
    ではない。さような事はすべて無意味だ。

     文学的 リアリティ を与えられない批評家等は混乱するなと
    言っても混乱する。或る特定の立場からこれを論ずる人もあり、
    自由な文学の見方を固執しようとする人もある。めいめい自分を
    苦しめるものは論敵だと思っている。論敵の理屈だと思っている。
    しかし実状をみればよくわかる。僕らを悩ましているものは立場
    や見方の対立ではない。面接する文学自体の顔なのだ。その
    不健康な表情が僕に奇怪な疲労を齎 (もたら) しているのだ。

     だから文芸批評家はみんな軽業のような芸当をしている。指導
    原理はないかと懐中をさぐっている人もあり、それを お土産の
    ようにくれる人もあり、絶対的思想の結論的 テエゼ だけを植木
    やのように手入れしている人もあり、そうかと思えばこれ以上
    言ったら ミ も フタ もないというような顔で繁昌 (はんじょう) し
    ている人もある。僕だって出演しているので、見物じゃない。
    出番の合い間に仲間に会釈するようなものである。

 仲間内 (舞台 ウラ) の混乱を曝露している文ですね [ 笑 ]。実は、私がこの文を読んだ時に感じた印象は、私が仕事している コンピュータ の領域でも、同じような現象が起こっているという同感でした。ここに引用した文を元資料にして、私の仕事である モデル 論に関して Twitter で綴る文を幾つか借用できるとも私は思いました──いずれ、きっと、借用するでしょう [ 笑 ]。

 引用文で吐露されている小林秀雄氏の嘆きは、一言でいえば、「(作家が制作している作品が) 文学作品になっていない」 という事でしょうね。だから、批評家のほうも混乱している。小林秀雄氏が以前に綴った次の文を私は思い起こしました (「アシル と亀の子 U」)

 (1) 作家にとって作品とは彼の生活理論の結果である。
    しかも不完全な結果である。

 (2) 批評家にとって作品とは、その作家の生活理論の唯一の原因である。
    しかも完全な原因である。

 小林秀雄氏が指摘している 「混乱」 は、たぶん、作家の生活理論が文学的 reality (実在性、真実性、迫真性) を喪っていて、そして、作家の制作理論が作家のそういう生活理論に因って壊敗しているという事でしょうね。だから、「こういう時に批評家等が面接する文学の像というものは一体どういうものだ。既に文学の像とは言い難いではないか」。そういう状態の中で、文学的 reality を喪った作品を仕事の入力としている職業的批評家は、批評の体が整ったなんらかの品定めを綴らなければならないのであれば、批評文が批評の用となる様に調 (ととの) えざるを得ない──小林秀雄氏の文を借用すれば、「軽業のような芸当をしている」。そして、その 「芸当」 として、指導原理を探っている連中もいれば、そういう指導原理と思い込んだ テエゼ を (文学作品とは無縁のままに) 手入れしている連中もいる、と。(文学作品の混乱と同じ様に、) 批評文のほうも、作品とは無関係に産出できるようになったのかもしれない──文学作品の性質を評する概念を幾つか用意して置いて、それらの概念を組みあわせて評を拵えることができるようになったのかもしれない。なぜなら、文学作品のほうでは、作家の体臭が消え去ってしまっているので、個性 (「表現の固有性」、即ち作家が事態と向きあって工夫した文体) などを論じないで、作品の個性の代わりに、作品が拠 (よ) って立つ前提となっている 「思想」 を社会との関係の中で論ずればいい、と。

 私は、ここまで語釈して来て、ため息が出ました──(小林秀雄氏の言うように、) こういう状態は確かに 「文学」 と云うには危うい。ひょっとしたら、「文学」 は、私が仕事している エンジニアリング の性質を段々に帯びて来ているのではないかしら、、、そして、社会がそれを強いているのかしら、、、文学的 reality の産まれる土壌が狭隘になってしまったのかしら、、、現代社会の中で、作家が 「文学」 の現状と行く末を どう感じているのかを訊いてみたい。(*)

 
(*)
そう言えば、川端康成氏が ノーベル 賞を受賞なさった時に、テレビ 番組の中で──川端康成氏、三島由紀夫氏と伊藤整氏が対談なさった番組の中で──三島由紀夫氏が 「文学が成立し難い時代になった」 と仰っていらした事を思い出しました。

http://www.youtube.com/watch?v=-SYpSFcXHZ0

http://www.youtube.com/watch?v=MDHa9vPKGE4&feature=relmfu

ちなみに──本 エッセー とは関係のない事なのですが (笑)──、川端康成氏の作品の中で、私は 「雪国」 と 「眠れる美女」 が大好きです。そして、「眠れる美女」 は、作家の原稿の影印を所蔵しています [ 川端康成氏の作品では、一番に好きな作品です ]。三島由紀夫氏の作品では、私は 「憂国」 が一番に好きです。

 
 (2012年 5月 8日)


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