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Those who are led by God's Spirit are God's children. (Romans 8-14)

 



 小林秀雄氏は、「文芸時評について」 の中で以下の文を綴っています。

     一体作家は批評家によって生きるのか。批評家なぞは甘いもの
    だ。ただ賞めたりけなしたりしているだけである。恐ろしいのは世間
    に沢山いる書かない批評家である。楽屋話しなぞしたって耳に
    入れてはくれない人たちだ。そういう人たちは知識階級の困惑に
    ついて、大森氏の説く処くらいは心得ているだろう。文壇の事情は
    知らない代り、東西の文学の名作は愛読しているであろう。現に
    そういう種類の友達をもっていない文壇人はまず一人もあるまい。
    そういう人たちは小説を文学的に (文学的にという意味は今日で
    は文学志望者的にという意味と大して違わない事は注意を要する)、
    読みはしない、また社会的に作品を吟味する暇なぞ持ってやしない。
    だが彼らは作品の リアリティ の濃度は鋭敏に嗅ぎ分ける。内奥の
    指針を本能的に動かしている。そういう風な事を考えると、企図は
    強烈だが リアリティ の弱い 「紋章」 と様々の批判に堪え得ない
    にしても、リアリティ だけは厭になるほど濃密な 「ひかげの花」
    とどちらが生き長らえるか疑問に属する。

 この引用文には私の拙い語釈や ぎこちない感想など付けないで、そのまま読んだほうがいいでしょう。この引用文を読んだ時、私は、またしても (笑)、私の仕事の領域 [ モデル 論 ] で遭遇する 「仲良し倶楽部」 の舞台 ウラ を思い起こさざるを得なかった (苦笑)。そういう厭な馴れあいの性質については、本 ホームページ で幾度も非難して来たので、本 エッセー では、今更に非難するのを控えます。(小林秀雄氏の ことば を借用して) 次の事を決して忘れないように心得ていればいいでしょうね──「恐ろしいのは世間に沢山いる書かない批評家である。楽屋話しなぞしたって耳に入れてはくれない人たちだ」。

 小林秀雄氏は、「企図は強烈だが リアリティ の弱い」 作品と 「リアリティ だけは厭になるほど濃密な」 作品を言及していますが、私が最近とても怪訝に感じている現象として、技術は パーフェクト なのだけれど感激を生まない──言い替えれば、印象に残らない、という意味ですが──作品が多いような感を覚える事が多い。たとえば、ピアノ 演奏では、音楽批評家が 「技術は パーフェクト である」 と批評しても──私は ピアノ の演奏技術を論評できる才識を持っていないので、音楽批評家の言を借用しましたが──、聴衆の多くが白んでいる状態を幾度か目にしたのですが、生演奏を聴いているというよりも CD の録音を聴いているような感を覚えます。そういう奇妙な現象が起こる原因は幾つもの事由が絡みあっているのでしょうが、一つだけはっきりしている事は、同じ (即ち、一つの共有された) 空間の中で、聴いている人たちの耳には空気の振幅 (音) が伝わっても魂の中に振幅が生じていないという事です。言い替えれば、パーフェクト な技術に対しては一驚を喫するけれど、演奏には感動しないという奇妙な現象です。きっと、それが芸術の難しい特性なのでしょうね。しかしながら、もし、そういう奇妙な現象を 「プロ 好み」 の演奏と評するのは楽屋話しではないかしら、、、。吉田秀和氏が フルトヴェングラー に関して評された次の文が私の心に響いています。

    フルトヴェングラーという音楽家で特徴的なのは、濃厚な官能性
    と、それから高い精神性と、その両方がひとつにとけあった魅力
    でもって、きき手を強烈な陶酔にまきこんだという点にあるので
    はないだろうか。

 いわゆる 「名演奏」 と賞される演奏には、どこかしらに シロート 臭さが感じられると思うのは私のような シロート の思い違いかしら、、、。それでも、小林秀雄氏の次の ことば を私は信じています。

    一流の作家というものは、一般人から遙かに離れていると同時に
    一般人に一等近いものです。

 
 (2012年 5月23日)


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