このウインドウを閉じる

you will look and look, but not see,... (Acts 28-26)

 



 小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。

     わが国の私小説家たちが、私を信じ私生活を信じて
    何んの不安も感じなかったのは、私の世界がそのまま
    社会の姿だったのであって、私の封建的残滓 (ざん
    さい) と社会の封建的残滓の微妙な一致の上に私小説
    は爛熟して行ったのである。ジイド が 「私」 の像に憑か
    れた時に置かれた立場は全く異なっている。過去に
    ルッソオ を持ち、ゾラ を持った彼には、誇張された告白
    によって社会と対決する仕事にも、「私」 を度外視して
    社会を描く仕事にも不満だったからである。彼の自意識
    の実験室はそういう処に設けられたのであって、彼は
    「私」 の姿に憑かれたというより 「私」 の問題に憑かれ
    たのだ。個人の位置、個性の問題が彼の仕事の土台で
    あった。言わば個人性と社会性との各々に相対的な量
    を規定する変換式の如きものの新しい発見が、彼の
    実験室内の仕事となったのである。

     彼の仕事は大戦前後の社会不安のうちに、芸術の
    造型性について絶望した多くの若い詩人作家たちの間
    に、着実に成熟して行った。彼ほど不安というものを信
    じて、不安のうちに疲れを知らず文学の実現をはかった
    作家はない。彼は実験室をあらゆるものに対して開放し
    た。様々の思想や情熱が氾濫して収拾出来ないような
    状態に常に生きながら、またそういう場所が彼には
    心地よい戦慄を常に与えてくれる創造の場所である事
    を疑わなかった。僕が ジイド を読んでいつも驚くのは
    こういう不安定な状態に対するいかにも執拗 (しつよう)
    な愛着であって、この愛着があってこそ彼の不安は観念
    上の喜劇にも遊戯にも堕さなかったのだし、彼の不安の
    文学に一種精力的な楽天主義が感じられるのもその
    ためだ。

 「私小説論」 を ここまで (全体の 2/3) 読んで来て、私はそうとうな困苦を感じています──というのは、私は ジード 氏の小説を読んでいないので、小林秀雄氏の意見に対して賛同する事も反論する事もできないままに字面を読むしかないので。それでも、ここで (引用文中で) 論点にされているのが 「視点」 であることは私にもわかる──ジード 氏が、作家の生活を土台にして作家独りの視点で小説を構成する事に対して懐疑的であった、と。(「私小説論」 は、) この引用文に続いて、次の文が綴られています。

    (略) 小説の登場人物等は、作者によって好都合な性格
    を持たされ、ある型の情熱を、心理の動きを持たされる
    が、すべて拵え事に過ぎない。人間は実際にはそういう
    生きていない、というよりむしろそういう風には生きられ
    ない。他人が僕について作る像が無数であるに準じて、
    僕が他人について、あるいは自分自身について作る切口
    は無数である。結果は、僕らは自分をはっきり知らない
    ように他人をはっきり知らない。また知らない結果、社会
    の機構のなかで互に固く手を握り合っていて孤立する事
    が出来ない。
     このような現実を、作者は鋏 (はさみ) を全く入れない
    でそのまま表現したい、少なくとも実際の現実の呈している
    無数の切口を暗示するように鋏を入れたい。そのためには、
    作中の様々な事件も思想も人物も確定した形に按排し配置
    されてはならない。めいめいが異なった色合いの鏡を持って、
    相手を映しているように描かれねばならぬ。(略)

 そして、「贋金造り」 を例にして ジード 氏の実験を分析しています──「諸人物を作者一人の鏡に映るようには描くまいという事だ。(略) ここで ジイド はある装置を発明した。先ず 『贋金造り』 という全く同じ小説を書いている小説家 エドゥアル を小説のなかに中心人物として登場させ、これに本人の鏡を持たせる。彼には ジイド という作者を彼の鏡に映す権利がある。そこで ジイド は手ぶらで立っていては自分の姿がはっきり映されてしまうから 『贋金造りの日記』 というものを書き、この小説制作についての作者の日々の感懐を述べてそこに自分の鏡を置いて、エドゥエル の鏡に対する。作者の姿は消え小説自体がのこるという仕掛けである。こういう装置によって、読者は、創造的な現実の最も純粋な姿に接する。ここに ジイド の純粋小説の思想がある」 と。

 「私」 の観た世間という様な視点は消えています──「私」 を信じて社会を斜に観る文士気質など入る筈もない。「現実を、作者は鋏 (はさみ) を全く入れないでそのまま表現したい、少なくとも実際の現実の呈している無数の切口を暗示するように鋏を入れたい」 となれば、小説制作は自然観察に近くなって作家は本来の意味で 「人生観」 を持っていなければならないでしょうね。ここで 「観」 というのは observation の意味であって、一つの視点で造型するという態度ではなくて──現実の実体 (真理) を見抜くという態度ではなくて──truth を探らないで reality を感じるという事なので、そういう意味では、ジード 氏の制作法は リアリズム と云っていいかもしれない。そういう意味では、日本の作家が謳った自然主義と ジード 氏の リアリズム は、確かに異質ですね。「自然主義」 という一つの概念を使って作家たちを一縮する事が杜撰である事を思い知らされる。

 小林秀雄氏の意見を前提にして推測すれば、「『思想 (あるいは、観念)』 の支配をうけない感情」 を表現する事が ジード 氏の意識していた事なのかもしれない──「様々の思想や情熱が氾濫して収拾出来ないような」 不確かな現実に対して不安を感じている漠たる 「私」 を欺かない事が彼の探究だったのかもしれない、そういう状態を真っ直ぐに観る、と。ただし、私は彼の作品を読んでいないので、あくまで推測にすぎないし、それ以上の事を言うこともできないのですが。

 
 (2012年 9月23日)


  このウインドウを閉じる