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...because they knew that he had told this parable against them... (Luke 20-19)

 



 小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。

     通俗小説家が多数の読者を狙って書くとは、読者が
    常日頃抱いている現実の小説的要約を狙うという事だ。
    だから成功した通俗小説においてはそこに描かれた
    偶然性とか感傷性とかいうものには、必ず読者の常識
    に対して無礼をはたらかない程度の手加減が加えられ
    ている。読者は自分に納得のいかない偶然や感傷に
    決して我慢してはいない。ところが現実世界は誰にも
    納得のいかない偶然や感傷に充ちている。そういう
    世界に眼を向けては通俗作家は為 (な) すところを
    知らないはずである。だからそういう世界が常に リア
    リズム の土台であった ドストエフスキイ のような作家
    の作品に現れた偶然や感傷は、通俗小説中の偶然や
    感傷とは縁もゆかりもないのである。「罪と罰」 が通俗
    小説にしてまた純文学だというような横光氏の言葉は、
    無論比喩であろうが、比喩にしても危険な比喩であって
    「罪と罰」 は単なる立派な小説なので、この小説から
    ある人々が通俗的要素しか読みとれないという事は、
    これはまた別様な問題である。また、氏がこういう比喩
    が使いたくなるほど今日の純文学が面白くないという
    事も別の問題だ。

     ドストエフスキイ の作品には、このような熱情や心理
    の偶然的な、奇怪と思われるような動きはいくらでも出て
    くる。現実の世界でそういう事は方々に起っているからで
    あるが、そういう事は通俗小説では決して起らない。真の
    偶然の姿は決して現れてはならない。その代り見掛けの
    偶然、つまり筋の構成上の偶然に充ちている。そして、
    ドストエフスキイ が、その思想を語るためにこの見掛け
    の偶然を利用していけないわけがない。つまり利用され
    た偶然は制作理論上の必然だからである。

     ドストエフスキイ はこの偶然と感傷に充ちた世界で
    あらゆるものが相対的であると感じつつ仕事をした人で、
    そういう惑乱した現実に常に忠実だったところに彼の新し
    い リアリズム の根柢がある。ジイド も ドストエフスキイ
    より遙かに貧弱にだが、遙かに意識的に同じ世界に対し
    て、これに鋏を入れずあくまでその最も純粋な姿を実現し
    ようと努めた。

 小林秀雄氏は、現実的事態とそれを物語る小説として構成する条件に関して、「偶然」 (と 「感傷」) を例にして、通俗小説と純文学の違いを述べています──通俗小説は 「必ず読者の常識に対して無礼をはたらかない程度の手加減が加えられて」 いるが、純文学は手加減をしていないので、純文学においては現実的な偶然が寧ろ奇怪に見える、と。正直に言えば、私は 「罪と罰」 を読んでいて ドキドキ しました (興奮のために心臓の鼓動が高まった事を感じました) が、再読しようとは思わなかった──再読するには [ ラスコーリニコフ の体験を間接的でも感受するのは ] 一回で充分すぎる、二回も堪えられない。ドストエフスキー の作品は──私が読んだ作品のほとんどは──再読するのが辛い、そして一回読んだら後々 ズッ と忘れられない物語です (その意味では、我々が過去の直接体験を思い出す現象に似ている)。それほどに文学的 reality を感じさせる作品です──ドストエフスキー の作品を読んだ人たちの多くはそう感じているのではないかしら。「罪と罰」 について なんらかの感想を述べようとしても、竟 (つい) に口を噤 (つぐ) むしかない岩みたいなものにぶつかる──私たちが強烈な体験をした後で、それを後になって思い出そうとして、細部を忘れても依然として遺っている強烈な [ 痺れた ] 感覚に近い。それが リアリズム という事かもしれない。

 
 (2012年10月 1日)


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