anti-daily-life-20121208
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you will not be able to finish the tower after laying the foundation; (Luke 14-29)

 



 小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。

    (略) 作家たちはいよいよ題材そのもののもつ魅力に
    頼り難くなる。客観が描き難くなるにつれて、見方とか
    考え方とかいう主題に頼らざる得なくなって来る。こう
    いう時に、ジイド の手法の到来は、作家等に大きな誘惑
    と映ったのだが、この誘惑に全身を託する作家は現れな
    かった。そういう用意が全く僕らには無かったからで
    ある。

     描写文学も告白文学も信じられない、ただ自意識という
    抽象的世界だけが仕事の中心になるような文学、そういう
    殆ど文学的手法とは言えないような空虚な手法を信じて、
    文学的 リアリティ を得ようとする ジイド の築いた「新しい
    土俵」 が、僕らに容易に納得出来たはずはあるまい。外的
    な経済的な事情によって、社会の生活様式は急速に変って
    行ったが、作家等の伝統的なものの考えは容易に変るはず
    がなかった。彼らは、生活の不安は感じたが、描写と告白と
    を信じ、思想との戦いには全く不馴れであった私小説の伝統
    が身内に生きていたところから、生活の不安から自我の
    問題、個人と社会の問題を抽象する力を欠いていた。また、
    こういう思想上の力によっても、文学の実現は可能だという
    事さえ明らかに覚らなかったのである。(略) それほど描写
    告白文学に対する素朴な信仰は強かった。文学以前に 「新
    しい土壌」 を築く無飾な帰納的な手法は、装飾的な演繹的な
    技法をもった横光氏にはまことに受け納れ難いものであった。
    (略)

     周知のごとく、マルクス 主義文学が渡来したのは、二十
    世紀初頭の新しい個人主義文学の到来とほぼ同じ時であった。
    マルクス 主義の思想が作家各自の技法に解消し難い絶対性
    を帯びていた事は、プロレタリア 文学において無用な技巧の
    遊戯を不可能にしたが、この遊戯の禁止は作家の技法を貧し
    くした。(略) それらの技法論に共通した性格は、社会的で
    あれ個人的であれ、秩序ある人間の心理や性格というものの
    仮定の上に立っていた事であり、この文学運動にたずさわった
    多くの知識階級人たちは、周囲にいよいよ真理や性格を紛失
    してゆく人たちを眺めて制作を強いられていながら、これら
    の技法論の弱点を意識出来なかった。(略) だが、またこの
    技法の貧しさのうちに私小説の伝統は決定的に死んだので
    ある。彼らが実際に征服したのはわが国のいわゆる私小説で
    あって、彼らの文学とともに這入って来た真の個人主義文学
    ではない。

     私小説は亡びたが、人々は 「私」 を征服したろうか。私小説
    はまた新しい形で現れて来るだろう。フロオベル の 「マダム・
    ボヴァリイ は私だ」 という有名な図式が亡びないかぎりは。

 以上の引用文は、「私小説論」 の終わりのほうで綴られている文です。「私小説論」 で小林秀雄氏が批評した論点をまとめた文なので、「私小説論」 の本文を読んでいれば、さほど難しい論ではないでしょう。「私小説論」 が公表された年代は 1935年なので、それから約 80年の時が流れて、その 80年のあいだには、多くの作家たちが作品を制作して来ました。小説が 「人間生活の総合的な再現」 であるならば、もし人生を真摯に考えているのであれば、人生経験をもつ人は誰でも小説 (の題材 [ 主題 ]) を持っているはずでしょうね。ただ、その主題を作品として構成する ちから の良否が問われる。そして、二番煎じ では作品にならないでしょう──誰もが知っていながら誰もが観なかった [ 見過ごした ] 実相を主題にしていなければならない。

 「『私』 を確実な視点と信じて」 自分の生活の中の断片を描くのであれば、小さな世界 [ 構成 ] しか描けない──そして、主題がこぢんまりしていて文量の多い作品を長編とは云わないでしょう。私の単なる直感にすぎないのですが、日本人は随筆 (および、短歌・俳句) を好んでいるのではないかしら。随筆を好む人たちが 「私」 (の見かたさえ)を疑って事態 [ 実相 ] を凝視して物語性を構成する事に慣れているとは思えないのだが、、、。私は文学研究家ではないので、過去 80年のあいだに公表された作品群を実証的に調べる事はできない。故に、あくまでも私の単なる直感を述べるにすぎないのですが、随筆・短歌・俳句を好む日本人の伝統は変わっていないのではないかしら。エッセー (随想) と云っても、パスカル や モンテーニュ や ルソー や アウグスチヌス に匹敵する日本人作家は存するかしら。ちなみに、パスカル、モンテーニュ、ルソー、アウグスチヌス の 「随想」 「告白」 は私の大好きな作品 (?) です──彼等の作品は、「文学以前の」 「『私』 の土俵」 を見つめた作品です。論証好きな システム・エンジニア が文学を直感的に語る事の蒙昧を もうこれくらいで止めたほうがいいでしょう──私は、所詮、小林秀雄氏の論に託 (かこつ) けて、私の随想を述べてきただけです。それでも、私は、論説を感性と切り離して語る事などできないと信じています。

 
 (2012年12月 8日)


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