anti-daily-life-20130201
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...,don't sin against the truth by boasting of your wisdom. (James 3-14)

 



 小林秀雄氏は、「新人 X へ」 の中で以下の文を綴っています。

     純文学の衰弱とか危機とかが叫ばれ、純文学は何処
    へ行くか、ジャアナリズム はこれ以上純文学の赤字に
    堪えられるか、というような事が言われている。誰に尻
    を持って行きようもない。純文学は何とか工夫すれば
    何処かへ行くようには本来できていない。何処にも行き
    はしまいし、これ以上の赤字にも堪えられやしまい。
    この点では僕は全くの悲観派だ。食えなくなったらいつ
    でも商売は代える。つまり代えられるものだけを代える
    のだ。純文学の衰弱は通俗小説の跋扈による、ラヂオ
    と映画の影響による、僕はそういう俗論を好まない。純
    文学に通俗文学の手法を取入れようとか、映画的効果
    を応用しようとかいう考え方も、外見こそ実際的にみえ
    るが、実は甘い考え方に過ぎない。そんな事で純文学
    は決して面白くならない。なるかならないかやって見る
    事だ。純文学の通俗小説化はやってみたいが、通俗
    小説を書くのは厭だ、という君の考えが、だんだん奇怪
    に思われて来るだろう。

 小林秀雄氏は、「新人 X」──純文学を書きたいが、純文学に行きづまりを感じている新人作家、という設定ですが、たぶん、世の中に定着している 「文学に対する俗説」 と思ったほうがいいかも──に対して怒っています。怒っている理由は、新人作家が本来見据えるべき問題から目を (意識上であれ無意識下であれ) 逸らして、論点を擦り替えているからです。小林秀雄氏の怒りを他の言いかたで一と口に言えば、「脚下照顧」 か。本来見据えるべき問題とは、、、それは、作家の腕が細った原因は、作家の生活そのものの見窄らしさにあるという事でしょう。誰だって身になっていない事をしゃべれば、それを聞いた人たちに見透かされるでしょう。そんな見え透いた話に惹かれる訳がない。「私小説」 など旧時代の小説のありかたであって、今更そんな小説など書きたくないと思っていても、実は、「私小説」 になるほどの材料 (テーマ) を生活の中で豊富に持ってはいないというのが実態ではないか、と小林秀雄氏は疑っているのでしょう。たとえ、(リアリズム を離れて) 「空想」 の物語を書くにしても、豊富な人生体験が前提となる筈です──「ドンキホーテ」 を読めば、それがわかるでしょう。モデル 小説であっても、事は同じでしょう。自照文学であれば、尚更です。

 芸術的技巧が物した小説だと評しても、読み通す前に物語 (あらすじ) を見透かされる様じゃ、そんな小説は厭 (あ) きられるのは当然でしょう。作家の人生観が テーマ を選ぶのであって、身についていないものを狙っても──そして、技巧を凝らしても──こじつけ で取り繕っている事を読者は直感する、こんな事を文学の シロート たる私が言わなくても作家はわかっている筈ですが、そういう作品を私は幾つか読んだ事がある。読み手の側から言えば、「白々しい」 と言うしかない。ちなみに、こういう現象は、文学作品に限らず、「論文」 と称した専門誌寄稿文にも見られるですが、、、本 エッセー の冒頭で引用した聖書 (The Bible) の文を私は噛みしめています。

 
 (2013年 2月 1日)


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