anti-daily-life-20130301
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..., but inside you are full of hypocrisy and sins. (Matthew 23-28)

 



 小林秀雄氏は、「新人 X へ」 の中で以下の文を綴っています。

     インテリゲンチャ の顔が蒼白いのが確かから、その
    確かなところから始めてくれ。鏡の前で、代表者の
    ような表情をして、顔を作るのはやめてくれ。君の自我
    がどんなに語り難いものにせよ、また語る事を君が
    どんなに軽蔑しようと、僕は依然として君の自我を尊敬
    するし、僕の欲しいものは君の自己証明なのだ。君の
    みじめな亡霊に関する君の一片の抒情である。なるほど
    こういう事は、君の颯爽たる文学上の希望に比べれば、
    一種の デカダンス に違いない。しかし、君が実際に
    心得ているのは希望よりむしろ デカダンス の方なのだ。

     君が自己告白に堪えられない、あるいはこれを軽蔑
    するのは、君がそれだけ外部の社会に傷ついた事を
    意味する。即ち、君の自我が社会化するために自我の
    混乱という デカダンス を必要としたのではないか。
    この デカダンス だけが、君に原物の印象を与え得る
    唯一のものだ。君が手で触って形が確かめられる唯一
    つの品物なのだ。確かなものは覚え込んだものには
    ない。強いられたものにある。強いられたものが、覚え
    こんだ希望に君がどれほど堪えられるかを教えてくれ
    るのだ。自分が病人である事が納得出来たら、病者の
    特権だけ信じ給え。薬で直ったような気がするのは
    よしてくれ。また、文壇 スポーツ、その他の スポーツ
    で死ぬほど退屈している癖に、このいい血色を見て
    くれなどというのも御免だよ。一気呵成に書いてしまって、
    気に入らぬ文句を書いたと思うが、僕も君と苦痛を
    わかっている事に免じて許し給え。失うべき青春もない
    僕が旧人になる事も出来ないからね。

 「新人 X へ」 の結びの文です。忠実なる 「自己告白」 が信じるに足る (誰も否定できない) 唯一つの原物の 「自己」 であることが述べられています。当たり前と言えば当たり前の事なのですが、なかなか できるものではないでしょう。社会の中で生活するとは、「役柄」 を演じる事なのかもしれない。我々は、普段、科白(セリフ)を言っている。それを科白とは感じないなら、それでいいのかもしれないが、科白であると感じていながらも自己を社会化するために 「仮面」 を被る──作家ならば、文壇で話題になっている颯爽たる制作理論で自身を着飾る。「鏡の前で、代表者のような表情をして、顔を作るのはやめてくれ」。あるいは、社会化できぬ自分を病人だと覚っているのであれば、「薬で直ったような気がするのはよしてくれ」。そして、既成の価値・道徳に反するという意味では、忠実な 「自己告白」 は 「デカダンス (懐疑的・退廃的)」 にならざるを得ない。「文壇 スポーツ、その他の スポーツ で死ぬほど退屈している癖に、このいい血色を見てくれなどというのも御免だよ」。忠実な 「自己証明」 こそ、作家たる証しである。それが惨めなものであっても、「自己証明」 を叙情文に託すのが作家である、と。

 小林秀雄氏が 33才の時 (昭和 10年、1935年) の作です。

 
 (2013年 3月 1日)


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