anti-daily-life-20130316
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You should not fool yourself. (1 Corinthians 3-18)

 



 亀井勝一郎氏は、「芸術に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

     私は入門書や解説を否定しないが、それは読者がそれに
    とらわれず、一の参考ぐらゐに考へて接する場合にかぎる。
    詩や小説に対しては、たとひ難解であつても、素手でとび
    こみ、翻弄され、迷ひ、自ら額に汗してつきつめてみること
    が大切である。解説がなければ不安心だと思ふのは心の
    一種の衰弱ではあるまいかと私は思ふ。尤も解説の性質に
    よつては、読書の上に大へん役立つこともあり、また古典
    や外国作品の場合、説明や註解の必要なのもたしかだが、
    それをみても、心の中で一応それを捨てることが大切である。

 極々当たり前に事を言っていますが、実践するには中々難しい心得でしょう。作品を評する文芸批評家がそう言っているという事が味噌でしょうね。

 私は若い頃に文学青年が陥りやすい罠に見事に掛かりました。本人いっぱしに作品を評しているけれど、作品に感動した形跡が聊かもない──作品に感動する前に評している。その批評も、批評家の ウケウリ です。天才の物した作品は、我々凡人に見透かされるほどに底の浅いものではないのですが、他人には見えない [ 把握できない ] 作品の特質を見える様に粧って評するという虚栄心が、批評家の言を ウケウリ する。芸術が特殊な世界であると思い込んだ虚栄心がなせる錯覚でしょうね。

 世の中には、芸術など屁とも思わない人たちも数多い [ 念のために断って置きますが、私は、そういう人たちに皮肉を言っているのではない ]。芸術に興味がないならば、それでいいではないか。しかし、芸術に惹かれたなら、惹かれた作品に真っ直ぐに向かえばいい。数多くの芸術作品を一通り評することができるという事は (批評家を除いて、) 我々一般人はできっこないでしょうね。自分が惹かれた [ 感動を覚えた ] 作品は、そんなに数が多いはずはない。そして、自分が惹かれた作品は、(作家の) 個性の表現なのだから、他人がどう言おうが気にする事もない──この愛着の他に作品を了得する法はないのではないか。この軸がしっかりしていなければ、「自分より見え申さざる内は批評も無益に候」 (荻生徂徠)。

 
 (2013年 3月16日)


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