anti-daily-life-20130323
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What you now see and hear is his gift that he has poured out on us. (Act 2-33)

 



 亀井勝一郎氏は、「芸術に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

     私のとくに強調したいのは、文学史に度々みられる分類
    と限定と定義の虚妄である。一作家は一個の独自な運命
    である。社会的条件は文学思潮の影響はまぬかれない
    が、彼をして独自のものたらしめた原因をさぐり、彼が
    どのやうな固有の テーマ を提出し、いかに答へようと
    したかを、個人に即してみつめなければならない。私小説、
    風俗小説、社会小説、その他無数の分類や定義があるに
    しても、それにとらはれてはらない。一口に自然主義文学
    とよんでも、その中の作家にはみな夫々の個性がある。
    同時代人としての共通点もむろんあるが、そこでその人を
    限定してはならない。或る主義や イズム を以て固定化
    してはならない。

     平凡は言葉だが、こゝでも一作家に対する愛着こそ問題
    である。批評の原理は様々あるにしても決定するのは愛着
    といふことである。そして一作家の全集をよみ、その出発、
    成育、成熟、死を凝視し、そこにその作家の肖像を再現し
    うるならば、それだけでも大へんなことであり、芸術鑑賞
    を深めるにも拡大するにも、畢竟はかういふ点から出発す
    る以外にない。(略)

     芸術の世界は広大無辺である。各人の好みといふもの
    があり、そこに執着することはもとより大切だが、それだけ
    が絶対だと独善的になつては危険である。東西古今に
    わたつて、どれだけ我我の知らない美があるかわからない
    し、これからまたどんな美が創造されるかも予想出来ない。
    一つのものに愛着するとともに、眼を広く開いてゐなくて
    はならない。しかも好奇心が分散状態にならぬやう、一歩
    づつゆつくりと踏みしめて行くことが大切だ。(略)

 私にも愛読してきた小説家・批評家は数人いますが、彼等と喫茶店で会って話をするとして、まるで当人が眼の前にいるかの様に感じられる人物は、三名でしょうね──有島武郎氏、亀井勝一郎氏と小林秀雄氏。道元禅師や ウィトゲンシュタイン 氏も、そうとう読み込んできたのですが、人物像が浮かばない──その理由は、私が僧堂の生活を送っていない事や、外国語を翻訳文を通して読んでいるからでしょうね (「哲学は詩をして書かれるべきだ」 と言った ウィトゲンシュタイン 氏は、文体を味わう事が当人を知る事になるでしょうが、翻訳文では又聞きに近いのでしょうね)。有島武郎氏は高校生の頃から読んでいて、亀井勝一郎氏および小林秀雄氏は大学生の頃から読んでいて、かれこれ 40年の つきあい になります。勿論、40年のあいだ、常に読んで来た訳ではないのですが、折々 くり返して読んで来ました。この三人は、今も愛読しています。40年読んで来て厭 (あ) きないというのは、私の気質にあうのでしょう。

 30才代はじめの頃、初めて米国出張した時──しかも、独りで!──、休日に ホテル の近くの モール に出掛けて、吹き抜けになった建物の二階の ベンチ に腰掛けて、階下の光景を漫然と眺めて、英語が聴き取れず日本語を話す相手もいない状態で孤独感を噛みしめていたのですが、近くの レコード 店から音楽が流れて来ました。美しい旋律だった、涙が流れた。人目も憚らず泣いた。モーツァルト の ピアノ・コンチェルト 第20番 (K. 466) でした。私は、店内に入って、片言の英語で今流れている曲の題名を訊いて、その カセット・テープ を買いました (当時、Compact Disc は誕生していない)。学校の音楽の時間で クラシック 音楽を聴かされた以外に、クラシック 音楽など一切聴いた事がなかった。二週間後に帰国してから、クラシック 音楽の カセット・テープ を買い漁りました。以来、今に至るまで、クラシック 音楽を、ほぼ まいにち、聴いています。ちなみに、ピアノ・コンチェルト 第20番は、短調です──短調特有の憂愁が私の当時の気分に響いたのでしょうね。もし、あの時に他の曲が流れていたら、私は クラシック音楽に魅入られなかったかもしれない。

 音楽作品を聴いて感動した事は、それ以後に幾度も体験しているのですが、モーツァルト の 交響曲第40番 (K. 550)──有名なト短調です──に関しては、最後まで聴き通した事が一度もない、聴いていて いつも途中で怠 (だ) れる。ベートーヴェン も シューベルト も メンデルスゾーン も絶賛したと云われている曲なのですが、第二楽章で挫折します (謎)。私の好みで言えば、モーツァルト の作品は、シンフォニー よりも ピアノ・コンチェルト のほうがいい。

 書物を書物としてではなくて、それを書いた作家の人柄として感じられるには、その作家の作品の多くを──できれば、全集を──そうとうに読み込んで来なければならないでしょうね。視点や文体を作家になったつもりで追体験する、読書の技術はそれ以外にはないのではないか。勿論、そういうふうにできるには、自分自身と気質のあう作家になるでしょうね。しかも、そういうふうに書物を読めば、そう多くの作家を読めないでしょうね。それでも、亀井勝一郎氏が言う様に、「一つのものに愛着するとともに、眼を広く開いてゐなくてはならない」。私は、モーツァルト との出会いの体験を通して、それを実感しました。無数の作品が遺されていて、いかなる巡り会いの機会があるか、誰も推測できないのだから。

 
 (2013年 3月23日)


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