anti-daily-life-20130401
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..., for I have learned to be satisfied with what I have. (Philippians 4-11)

 



 亀井勝一郎氏は、「教養に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

    (略) 熟練性こそ教養だと言ひたいのである。またそこ
    にこそ道徳の基礎があると思つてゐる。

     道徳とは文字どほり道の徳である。道とは一つの職業
    に熟練した人の道であつて、さういふ人は道徳をあらは
    に説かずとも、おのづからにして道徳家ではないか。私
    はさう考へてゐる。そして一つの道に精通するとは、その
    道に関する知的努力の極限を示すことであつて、かゝる
    累積が彼の人格を磨き、在るがまゝのすがたで、何か底
    光りを発してゐる。それを私は理想の教養人とよびたい
    のだ。何ものかを生産する人でなくてはならない。農夫
    でも大工でも職工でも文士でも画家でも、職業はとはな
    い。生産者あるひは創造者としての苦しみの汗からにじ
    み出たものが教養だと私は思ふ。

 この意見には私はだいたい賛同するのですが、「熟練」 の定義が曖昧なので、長いあいだ一つの仕事に就いている人たちがすべてが必ずしもそうであるとは限らないでしょうね。長いあいだ一つの仕事に就いている人たちの中で、常に自らの仕事を意識してその価値を問い質 (ただ) し工夫を重ねて探究している人が 「熟練」 に値するのでしょう。

 私は、システム・エンジニア として、モデル 論を 30年近く探究して来ました。聊かの自惚れも持たないで、私は 「熟練」 の範疇に入ると云っていいでしょう。この仕事に私の喜びも悲しみも託して、私はこの仕事の特殊な具体的技術の中に私の考えかたを感得しています。仕事のうえで、新たな着想を技術として実現した愉しみだけではなくて、勿論、着想を技術として具体化できない凡才の絶望感も味わって来ました。先人の天才的論文を読んでもわからない自分の凡才を嘆いて、仕事を辞めようと思った事も幾たびかありました。仕事が呪いの様に感じた事も体験しています。それでも、自分の思考を刻印した TM という現実の形を創ろうと勤労して来ました。仕事において、掛け値なしに、私は真摯である事は事実です。

 しかし、私が 「道徳家」 であるとは言い切れない。寧ろ、友人たちに多大な迷惑を掛けている。私は仕事を離れたら、ぐうだらです。正確に言えば、仕事の他はどうでもいいと考えているふしがある──礼儀作法がなってないし、衣服にも無頓着です。仕事を離れた時でも、仕事の事を考えているので、世事には注意を払わない──いわゆる absent-minded。こんな人物が 「(知的努力の) 累積が彼の人格を磨き、在るがまゝのすがたで、何か底光りを発してゐる」 かどうかは推して知るべしでしょう。したがって、「教養人」 ではないでしょうね。

 「教養に対する私の態度」 は、昭和 26年に書かれています。私が生まれる前です (私は昭和 28年生まれです)。当時は、「熟練者 = 道徳家 = 教養人」 という等式が成り立つ様に思われていたのでしょうね──当時でも、この等式は、亀井勝一郎氏の 「理想」 であって、社会の実態はそうではなかったのではないか。昭和 26年には、NHK がテレビ初の実験実況中継 (後楽園球場から日本橋三越へ プロ 野球放送) をおこなった、スマホ が普及した現代とは隔世の感がありますね。仕事の分業化した、そして仕事の機械化が進んだ現代では、「熟練者」 は、限られた職にしか見いだせないのではないか。したがって、職業に根ざした 「道徳」 も 「教養」 も陳腐に聞こえるのは、(知的努力の限界を示す様な) 「熟練」 を要する仕事が殆ど存しないからではないか。マニュアル 通りに事を為せば良い (あるいは、マニュアル 通りに事を為す事をもとめられている様な) 仕事において、知的探究を期待する事はできないでしょう。現代では、手続き化された仕事において たとえ巧みな人であっても下卑た人物であるという現象は、それほど奇怪ではないのでしょう。これは悲しむべき事ではないか。

 私は仕事 (モデル 論の探究) の中で充実しています。しかし、そうするには、支払った対価は余りにも大きかった──モデル 論を探究するために私生活を犠牲にして購われた不幸な充足感です。そう言ったからといって、私は センチメンタル な感情に浸っている訳じゃない。ただ、自分の人生を振り返って、15年を費やして制作した TM は数学基礎論から逸脱していない事──原論の確かな脈絡の中を確実に歩いている事──を知って、私は喜ぶと同時に ため息も漏らしている次第です。探究の行き着いた先が、(数学上の) 平凡な結末だったにすぎないという逆説的な充足感です。

 
 (2013年 4月 1日)


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