anti-daily-life-20131029
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But others made fun of the believers, saying "These people are drunk!" (Acts 2-13)

 



 亀井勝一郎氏は、「私は文学をいかに学んできたか」 の中で次の文を綴っています。

    (略) 人からちよつとほめられると大へんうぬぼれるし、人から
    ちよつとけなされると忽ち失望するし、人間は自己について実に
    不安定である。自己の才能について空想的になりやすい。文学は
    我々の空想力を甚だ刺戟するもので、いゝ作品をよむと、自分も
    書きたいと思ひ、筆をとるのだが、しかし天才とか達人の作品は
    すべて長い間の努力、熟練のたまものであることを忘れてはなら
    ない。空想は インスピレーション にたよつてものを書かうと思って
    も駄目である。やはり表現上の異常なまでの苦心、そこでの知性と
    感情の極度に精密な計量がなくては、決して作品は出来あがらない
    である。詩でも小説でも評論でも同じことである。

 私は 30才過ぎの頃から今まで約 30年弱 セミナー 講師を務めて来ましたが、30才代の頃には、私の セミナー に対する アンケート 評価がとても気になりました――褒められたら喜び、貶されたら落ち込みました。プレゼンテーション のやりかたを私は指導された事などなかったので、自己流のやりかたで押し通して来ましたが、30年弱も セミナー 講師を務めて来れば、セミナー のやりかたを身をもって覚える様です。そして、聴衆をわざと挑発したり見え見えに媚びを使ったりする大道芸も覚えました (笑)。45才頃になって――講師をやる様になって 15年くらいして――、アンケート 評価が気にならなくなりました。というのは、聴衆に色目を使うのが、馬鹿らしいと思う様になったのです。私は芸人ではない、聴衆の興味を惹くために、話を面白おかしくする潤色に気を使うのは筋違いだと思う様になったのです (勿論、セミナー 講師をはじめた頃に比べて、15年という年月を費やして真摯に探究を続けて来て、知識が次第に整えられ確実になるいっぽうで更なる知識拡充もして来たという事が自信になっている事は確かです)。

 真面目な話を 終始 座ってしゃべる事と、演題には関係のない話を身振りを入れてしゃべる事を比較したら、聴衆の記憶にのこったのは後者であるという調査報告もありますが、そんな調査を心理学の学術調査だと云われても、目に入る情報は耳に入る情報に比べて多いという事を示しているだけであって、そんな事は普段の生活で我々は重々体験しているし、更に言うならば、耳に入る情報は、高音に比べて低音のほうが心地よいし、身振りが多くても高い声でしゃべられたら聞くに耐えないでしょう。ひとつの事態というのは、幾多の構成条件で成り立っているので、ひとつの条件のみを選んで善し悪しを判断するという様に、事態を「解釈」するうえで非常に便利な単純な公式というのは、その便利さのゆえに事実を見落とす事を我々は常識で [ 普段の生活の実体験で ] 充分に知っているでしょう。

 私は今では セミナー の事前準備は一切しない。会場の臨場感を大切にしたいからです。しかし、(念のために言っておきますが、) 出たとこ勝負のひらめきに頼っている訳ではない。常日頃、モデル 論について考えています――そして、考えた事を本 ホームページ や Twitter (@satou_masami) で綴っています(文章にして推敲しています)。考えて文を綴り、文を綴って考えています。すなわち、日々、考える――これが間違いのない周到な準備です(少なくとも今に至る 10年間は そうして来ました)。

 若い人たちに プレゼンテーション のやりかたを指導した事がありますが、私の流儀は一切教えなかった――プレゼンテーション の基本技術 (論の構成法、発声法など) を指導しましたが、その程度の事なら、数多出版されている 「プレゼンテーション のやりかた」 の書物に書いてあります。上手に語れる技術などは個性でもなんでもない。自分に忠実だった人が、竟 (つい) に個性的な プレゼンテーション をする――そういう意味での個性というのは、プレゼンテーション 技術が説明できる様なものでもないし、他人が指導できるものでもない。それは、日頃、数多くの プレゼンテーション を為してきて、習い覚えた技術のみでは言い表す事のできない事があると痛感して、独力の工夫によって自分の表現力を試す、そういう工夫を重ねて着々と体得する他はない。セミナー 講師にならないのであれば、そういう工夫の機会は殆どないでしょう。そうであれば、言いたい事を分かりやすく伝えるという技術を習得する事で充分ではないかしら。

 「表現」 が難しいとは ドストエフスキー の様な天才も言うし、我々会社員も言うのですが、「伝える」 という事には、(その表現力を養う尽力に応じて) 無数の階梯があるのは明らかでしょう。表現力を養うには、日々、書物を読んで、思索して、文を綴る事。中途で止めるなら初めからやらないほうが有益です。生兵法は大疵のもとです――「考える」 事にも技術と経験を必要とするし、或る一時期には、自分の思考法・表現力に酔う事もあるので、酔いが覚めるまで続ける事です(私も30才代の頃には充分に酔った時期があります [ 苦笑 ])。表現力を養う事は、充分に難しい・年期の要る 一つの修養である事を私は今もって痛感しています。

 
 (2013年10月29日)


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