anti-daily-life-20140123
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The wind blows wherever it wishes;... (John 3-8)

 



 亀井勝一郎氏は、「私は文学をいかに学んできたか」 の中で次の文を綴っています。

    (略) 人一倍感じやすい人々にとつて、楽な環境などある筈はない。
    どんな時代、どんな環境にめぐまれても、与へられただけのものには
    不満を感じ、それに抵抗し、孤独において仕事を残したのである。

私は自身を 「人一倍感じやすい」 性質だとは思っていないけれど、物事を考え込むほうだと思う。しかし、「与へられただけのものには不満を感じ」 ないほうだし──ただし、「足るを知る」 などと云うほどに宗教的な 「自足」 の意味では毛頭ない──、「それに抵抗し」 て来なかったほうです。成るがままに (あるいは、為すがままに) 委ねて来たと云ったほうが正確かもしれない。そうかと云って、「場当たり」 な対応をして来た訳でもない (考え込むほうなので)。ただ、考え込むので、孤独を愛するのは確かです。そういう性質 (孤独を愛して、人々と交際するのを疎ましいと思う性質) を、若い頃は嫌だったのですが、還暦にもなれば、寧ろ心地よいと感じています。

孤独を愛したがゆえに、仕事 (モデル 論の探究) を 30年も継続する事ができたし、TM (モデル 制作技術) を作る事ができたのだと思う。しかも、TM を作る際に、文学は多大に影響していました。文学と数学 (そして、哲学) は、私にとって仕事に随分な影響を与えました。私にとって文学も数学も扉の1つ1つは開けるには重かった (今も重い)。頭の良い人が簡単に開ける扉を私はゆっくりとじわじわ開けて来たし、今後もそうだろうと思う。頭の良い人々が決してやらない道草を食って、私にもひとつの確信が生じました──頭のさほど良くもない私でも、人々に較べて いっそうの時間を費やせば、そして色々な体験をして考えれば、人後に落ちる事はない、と。しかし、そのためには、鈍物な私には孤独が不可欠だった。

もし私に仕事に対する不満があるとすれば、処世と制作とは べつ物であるという事を実感したという事です。

 
 (2014年 1月23日)


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