anti-daily-life-20141016
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by having the same thoughts, sharing the same love, and being one in soul and mind. (Philippians 2-2)

 



 小林秀雄氏は、「測鉛 U」 の中で次の文を綴っています。

    凡そ ものが解るという程不可思議な事実はない。解るという事には
    無数の階段があるのである。人生が退屈だとは ボードレール もいう
    し、会社員も言うのである。

今回、私は、とても難しい文を選んだのかもしれない、、、。

「わかる」 という状態には、それを言葉で表現する事もあれば、沈黙──筆舌には尽くしがたい状態の中で──ただただ味わうという事もある。黙して語らずの状態であれば、本人はわかっていても 他人は沈黙している人がわかっているのかどうかがわからない。

言葉というのは、我々が感じ考えた事を伝達するために編み出したものですが、ひとつの言葉が送り手と受け手のあいだで同じ意味として伝わるかというと必ずしもそうでない事は、我々は日常生活で 多々 体験しているでしょう。送り手と受け手のあいだで同じ意味として伝わるためには、事象・事物と言葉とが 「1 対 1」 に対応関係になければならないのですが、言葉は多義である事のほうが普通です──多義の中から一つの意味を掴むには、文脈の中で判断する事になるでしょう。そして、文脈は、送り手の視点で構成される。受け手のほうでは、送り手の観点や主題に関して、或る程度の共有できる土壌 (frame of referece) を持っていなければ、送り手の言いたい事を掴む事ができない。

相手の述べている事がその人自身の感じ考えた事であるかどうかを判断するために、「語彙と文体」 を私は判断します──感じ考えた事を正確に言い表すために、どういう語彙を使って、どういう文体を編んだのかという事を私は吟味します。語彙はその言語を使う人々に共通の符牒ですが、文体はその人独自のもの (真似のできないもの、個性) です。文体はどのようにして編み出されるのかという事は、たぶん、誰もはっきりとは説明する事ができないでしょう。でも、文体というものは、歴然と生まれる。文体は、たぶん、我々が生活のなかで習得してきた ものの感じかた・考えかたが写像されるのでしょう──だから、個性となる。自分の感じ考えた事に耳を傾けて、それを彫塑するための自分の才知が表現できれば、自ずと個性になるはずです。

思想に関するかぎりでは、その要約に私は信を置かない。思想は文体に載って運ばれる、と私は信じています。要約された思想などというものは、要約した人の視点で作り替えられた産物です。思想をわかるという事は、それを運んでいる文体の与える印象を充分に味わうという事でしょう。要約された文では、それができない。だから一つの思想をわかるという事は、年月を費やす・存分に難しい労役でしょうね。現実の事態・事物に対して、我々は符牒を与えて、その符牒を使って考えますが、その符牒は、それを使う人の人生という文脈のなかで意味をもつでしょう。互いに異なる人生を歩んで来た人々のあいだでは、相手の思想がわかるという事は奇蹟に近いのではないかしら──否、正確に言うなら、できない事でしょう。わかってもらえないが、わかってもらいたいという切望は、竟 (つい) には、わかってもらいたいが、わかってもらえないという絶望に一転する──そう意識した時、我々は、はじめて、自らの人生を痛感するのではないかしら。

 
 (2014年10月16日)


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