anti-daily-life-20150108
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even though in the past I spoke evil of him and perscuted and insulted him
(1 Timothy 1-13)

 



 小林秀雄氏は、「文章鑑賞の精神と方法」 の中で次の文を綴っています。

     ただ鑑賞しているという事が何となく頼りなく不安になって来て、
    何か確とした意見が欲しくなる、そういう時に人は一番注意しなけ
    ればならない、ある意見を定めて鑑賞している人で、自分の意見に
    ごまかされていない人は実に稀です。生じっか意見がある為に広く
    ものを味う心が衰弱して了うのです。意見に準じて凡てを鑑賞し
    ようとして知らず知らずのうちに、自分の意見にあったものしか
    鑑賞出来なくなって来るのです。いろいろなものが有りのままに
    見えないで、自分の意見の形で這入って来る様になります。こう
    なるともう鑑賞とは言えません、ただ自分の狭い心の姿を豊富な
    対象のなかに探し廻っているだけで、而も当人は立派に鑑賞して
    いると思い込んでいるというだらしのない事になって了います。

 この文を納得する事は難しい事ではないけれど、難しいのはそれを実行できるかどうかという事でしょうね [ 小林秀雄氏がそれを実践している事は勿論の事です ]。我々の眼球の構造が同じでそれが正常に作用している限りでは、多数の人々が同じ モノ を観れば全員の眼が捉える映像は同じであるはずですが、個々人によって 「見かた」 が異なってしまう。いわゆる 「視点 (観点)」 と云われている 「立ち位置」 が、意見を述べる時に先ず論点になる。我々は、生活しているなかで、当然ながら、興味のない事に対しては思考を節約しているでしょう──すべての事について、いちいち詳細に吟味して判断している訳ではないし (そんな事はできやしない)、そして職業に就いてからは仕事のなかで求められている技術を習得するために自分の考えかた・感じかたが仕事のなかで養われていって、その考えかた・感じかたが自分の流儀になってゆくでしょう。それはそれで尊い事なのですが、時にそれが硬直して足かせとなってしまう。つまり、頭が眼を騙すという現象が起こる。それが文章を読む時にも起こりやすい──自分の都合のいいふうに相手の文を読んでしまう。それを小林秀雄氏は注意しているのですが、先入観をもたないで相手を観るというのは とても難しい事だと私は (自分の今までの体験を振り返って) 痛感しています。

 文を書いた人も或る 「見かた」 に依って意見を述べているし、それを読んだ人も或る 「見かた」 で読んでいる。伝達という行為は──特に、思想を伝える行為は──奇蹟に近いでしょうね (しかも、感情も絡んでくるので、多様な [ 入り組んだ ] 行為になっている)。多様なものを単純にしようと思えば、要約するしかないでしょう。しかし、ひとつの思想を要約して学習する (あるいは、鑑賞する) 事は、それを伝える文体を無視する事であって、一種の暴力だと私は思っています。

 
 (2015年 1月 8日)


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