anti-daily-life-20180215
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they attack with insults anything they do not understand. (Peter 2-12)

 



 小林秀雄氏は、「女流作家」 の中で次の文を綴っています。

     僕は元来女とは、という様な警句を吐く男を好まない。
    僕の経験では女をよく知っている男ほど女というものは
    という風な話の仕方をしたがらない様だ。

 「女 (あるいは、男) というものは、そういうものさ」 というふうに汎化して纏 (まと) める人を私も嫌いです──嫌いというよりも軽蔑します。そういう言いかたをされると 「この人は、女 (あるいは、男) を どの程度 知っているのかしら」 と、私は内心でつぶやく。大体が、女 (あるいは、男) のことなど、知り尽くすことはできないでしょうね。「私が接してきた幾人かの例で云えば」 という制限を置けば、その後の話を聞くこともできるけれど、それでも 「女というものは」 という汎化した纏めを私は嫌う。女をよく知っている男は、たぶん、それぞれの女の 「個性」 を味わっているだろうし、以前に接した女のことを云々言うよりも、これから会う女 すなわち どんな 「個性」 の女に会うのだろうかというほうに興味があるのではないかしら。

 「対象を知れば知るほど (対象の多様性のために) わからなくなる」 という面もあるでしょうね。だから、しゃべらない (しゃべることができない)、と。年配の人たちのなかで人生経験が豊富な人たち (あるいは、仕事に熟練してきた人たち) ほど、その様です。そういう人は、「女というものはという風な話のしかた」 をする人の話を微笑 (ほほえ) んで聴いている。そして、人生経験豊富な人は、自分がすでに知っている話でも途中で遮らない。話をしている人に対して 「でも、君は まだ若いなあ (ザッと言うな、アホ のくせして黙っとれ)」 というふうな反論は決してしない。私から観れば、そういう いわゆる 「大人 (おとな)」 は質 (たち) が悪いといえば質が悪い。私は 64才になった今も、如何せん そこまで成熟していない。「女というものはという風な話のしかた」 をする人に対して、「君 (きみ) は、女のことをよく知っているのだね」 というふうに、私は皮肉を言うでしょうね。

 
 (2018年 2月15日)


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