anti-daily-life-20180315
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for their minds and consciences have been defiled. (Titus 1-15)

 



 小林秀雄氏は、「文芸雑誌の行方」 の中で次の文を綴っています。

     何はどうなるだろうか? 彼 (か) にはどうなるだろうか?
    と人の顔さえ見れば インテリゲンチャ は言っている。言わ
    なければ沽券 (こけん) にかかわる様な気がしているの
    だろう。それだけだ。

 「文芸雑誌の行方」 は 1938年 (昭和 36年) 1月に出版されました。「インテリゲンチャ」 という ことば は現代では死語でしょうね、「知識-労働者 (知識労働階級)」 という意味です。私が大学生の頃 (40年前) には、まだ使われていました。「インテリ」 という語も、もうあまり使われていないのではないかしら。

 でも、そういう人たちは、現代でも多く存するでしょう。テレビ の 「昼の ワイドショー」 番組の コメンテータ などは、その典型 (「言わなければ沽券 (こけん) にかかわる様な気がしている」 連中) でしょうね。「インテリゲンチャ」 は大衆に対比した特殊な (エリート?) 階級でしたが、現代では ウェブ と SNS が普及して、大衆が発信する機会が増大し、大衆が 「インテリゲンチャ」 化している。

 WWW (ウェブ) と SNS は、スゲー 技術だと思う。私は、起きて目覚めの コーヒー を飲みながら、まいにち 2時間ほど スマホ (タブレット) で ニュース や コラム (ブログ、Facebook、Twitter など) を閲覧しています。夜には 1時間半ほど PC で ウェブ を サーフ しています。ウェブ・SNS の閲覧には、まいにち 3時間半ほど費やしている。

 入手する情報量からいえば、40年前 (大学生だった頃) の読書に比べて、今のほうが断然多い。接する情報が多くなったけれど、自ら考える習慣が少なくなったというふうに単純には言えない──書物を読んでいるときも タブレット で記事を読んでいるときも、同じように考えながら読んでいる。媒体がちがうだけで、読む態度には変わりはない。違いがあるのは、読書では一冊の書物を続けて読むので精読している状態だけれど、ウェブ・SNS の閲覧では、短じかい文を次から次と拾い読み・走り読みしている状態です。どちらの読書が良いとか悪いとかの問題ではなくて、ひとつの思想の精読・熟読と色々な情報の拾い読みを併せている。読書では、それら ふたつとも有益ではないか。

 「何はどうなるだろうか? 彼にはどうなるだろうか? 言わなければ沽券 (こけん) にかかわる様な気がしている」 ような連中は いつの世にも存する。Facebook の 「友だち」 投稿記事のなかには、様々な事に首をつっこんで コメント している人たちも少数いるけれど、自分が関与していないことに対して憶測をしゃべることを恥ずかしいと思っていないようですね。知的節度がない。そういう投稿記事を私は読み飛ばします。少なくとも、自分の立っている位置から見える [ 自分が経験できる ] ことについて自らの意見を言っていないような記事を私は読み飛ばします。私がそんなことを言わなくても、多くの人たちは、意識的にしろ無意識的にしろ、そうしているのではないか。

 ウェブ・SNS が普及して、世間は口達者になった。皆が皆 正直な意見を述べようとすれば、それはそれで会話は存続しなくなるでしょう。しかし、語り伝えたい話題も持たず、そうかと言って、黙っているだけの節度 (知性) も持たないで、次から次へと様々な他人の種々な意見に コメント を綴る人を博学とは云わない、寧ろ軽薄・無駄口でしょう。

 
 (2018年 3月15日)


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