anti-daily-life-20180415
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constant arguments from people whose minds do not function and who no longer have the truth.
(1 Timothy 6-5)

 



 小林秀雄氏は、「志賀直哉論」 の中で次の文を綴っています。

     肉体の病人は、ごく軽い病人でも、健康を切望するもの
    だが、精神の病人は、いくら精神が腐って来ても、それに
    気が附かないだけの口実は用意する、、、

 荻生徂徠風に言えば、「習之罪」 でしょう。知識を習得するにつれて、往々にして陥る罠です──私も若い頃に どっぷりと陥った罠です (苦笑)。その症状としては、自分を賢いと思い込んで、物事を決めつけ、他人を見下し、一匹狼を気取っているくせに承認欲求が強い。そういう症状が既に顕れている病人なのですが [ 勿論、これは精神医学で云う精神疾患ではないので取り扱いが厄介なのですが ]、「気が附かないだけの口実は用意する」──曰く「俺は、こんなところで こういう低俗な ヤツ らを相手にしている人物ではない。俺には もっと高尚なことをやるという意思がある」。いわゆる 「意識高い系」 の人たち (自意識の強い人たち) に観られる特色です。そして、この罠から抜け出るのは難しい。

 この問題を考えていると、ついには大きな問題にぶちあたる──自分の精神が自分の精神の状態を診断できるのか、と。集合論の パラドックス (意味論上の パラドックス) に似ていますね、「『クレタ 人は ウソ つきだ』 と クレタ 人が言った」 と。結局は、過去の (或る環境条件下に置かれた) 自分の精神状態を対象 (あるいは、鏡) にして、今の環境条件下に置かれている (或る精神状態にある) 自分が分析するしかない。外因と内因が交錯した ひどく難しい分析になる──当然ながら、ふたつの精神状態が同一の環境条件でなければ比較はできない。つまり、環境条件の継続性が前提になっていなければ、精神状態の変化を思量することができない。そして、その継続性を前提にするのは、どだい無理でしょう。とすれば、比較ができないので、いくらでも精神の変化 [ 変化が機に応ずること ] を理由づけできる口実が這入る余地はある。だから、「いくら精神が腐って来ても、それに気が附かないだけの口実は用意する」。

 
 (2018年 4月15日)


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