anti-daily-life-20180801
  このウインドウを閉じる


Keep on imitating me, my friends. ...follow the right example...(Philippians 3-17)

 



 小林秀雄氏は、「満州の印象」 の中で次の文を綴っています。

     西洋模倣の行詰まりと言うが、模倣が行詰まるというのも
    おかしな事で、模倣の果てには真の理解が現れざるを得ない。
    そして相手を征服するのに相手を真に理解し尽すという武器
    強い武器はない。これは文化の発達の定法であって、わが国
    の文化は、明治以来この定法通りに進んで来た。

 「真似るとは学ぶということだ」 という言い古されてきた世諺を ここで持ちだす気は私には更々ない──確かに、「真似るとは学ぶこと」 なのですが (小林秀雄氏の言うように、「模倣の果てには真の理解が現れざるを得ない」)。そのうえで、私が ここで考えてみたいのは、「真似る」 という気持ちが起こった時の それに先行する 「相手を信じる」 という信心・捨身の状態です。

 相手を信じることなしに相手を真似ることはないでしょうね──相手への信心 (信頼) が先にある。私のことを言えば、若い頃に、或る数学者の しゃべり方まで真似をしていたし、小林秀雄氏や亀井勝一郎氏の文体を真似て彼らの考えかたを身に着けようとしました。こういう模倣は、若手 タレント (たとえば、私の好きな東方神起) の ファッション を真似るとか、流行 (はや) りの思想・ファッション を真似ることとは違うでしょう──相手に対する 「憧れ」 から真似して相手と 「一体感」 を持ちたいという意味では思想家を模倣することも若手 タレント を模倣することも一過的には同じなのですが、自分の生活の根柢を相手のそれに近づける [ そういう危険を冒してまで自分を相手のなかに捨身する ] という意味では、ひとりの思想家を模倣することは自らの人生を賭している模倣です。相手を信じなければできないでしょう。

 俳優 (役者) は、このことを よくわかっているのではないかしら。彼らが演じる役柄にのめり込んで、のめり込んだが故に演技が終わってからも役柄から抜け出ることができないという役者の性 (さが) [ 役者の冥利? ] を、或る俳優が雑誌で述べていました。

 相手を熱烈に真似た挙げ句が相手は自分の成りたい実像ではなかったという不幸な愛に終わる場合もあるでしょう。幸いにも私には そうことはなかったのですが、もし そういう事態に終われば、長い年月を掛けて [ 賭けて? ] 真似したことが徒労であったとわかった時には、そうとうな空虚感に襲われるでしょうね──ウィトゲンシュタイン 氏の 「論理哲学論考」 に対して、坂本百大氏が若い頃に のめり込んだが、後々 失望したということを述べています。ただ、厄介なことに、長い年月のあいだ真似してきたが故に、たとえ相手から離れても、相手は自分のなかに多少とも痕跡を残すでしょう。理性を失って相手にのぼせて真似ることも往々にしてあるけれど、醒めて熱中することは難しい。親鸞聖人が信仰について仰った ことば 「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄に落ちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」、この覚悟がなければ思想家を真似ることなどできないでしょう。「この定法通りに」 進むしか思想を学ぶ手立てはないのではないか。

 
 (2018年 8月 1日)


  このウインドウを閉じる