anti-daily-life-20181101
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'You bad and lazy servant!' (Matthew 25-26)

 



 小林秀雄氏は、「現代女性」 の中で次の文を綴っています。

     決断だとか勇気だとか意志だとかを必要とする烈しい行為
    にぶつかる機もなく、又そういう機を作ろうとも心掛けず、
    日々を送っている人間は、心理の世界ばかりを矢鱈に広げ
    て了うものだ。別に拡げようとするのではないが、無為な人
    の心は、取止めもない妄念や不逞な観念が、入乱れて棲む
    のに大変都合のいい場所なのである。

 小林秀雄氏のこの言に対して、私は共感します。と言うよりも、このような性質が私には強いと認めざるを得ない。「無為な人の心は、取止めもない妄念や不逞な観念が、入乱れて棲むのに大変都合のいい場所なのである」──私は、まいつき数日しか働かない [ ユーザ 企業に出向いて仕事するのが まいつき 数日である ]、他の日々は まいにち 書斎に閉じ籠もって パソコン に向かっているか、あるいは書物を読んでいる 「無為」 な生活を 40歳の頃から 25年間続けて来ました (そういう私を まいにち 間近で観ていた息子 [ 長男 ] は私のことを「世捨て人」 と呼んでいました (苦笑))。 そういう生活は、どうしても 「心理の世界ばかりを矢鱈に広げて了う」。まるで、闇夜のなかで広大な海のなかに投げだされて、どこを向いて泳いでいるのか わからないような感覚に似ています。現実の生活という 「重し」 がないので、思考は勢い駆け回る──「取止めもない妄念や不逞な観念が、入乱れて棲む」。

 そういう生活を続けてきて、たまに 現実の生活に触れると、現実の生活が色褪せた・薄っぺらい世界のように思われる──どうして人々は、これほど 見窄 (みずぼ) らしい・嫌みな顔をしているのか、と。しかし、これは 勿論 倒錯した世界です、私は夢境に漂っているにすぎない。今風に言えば、メンヘラ [ あるいは、「頭がお花畑」] 状態に陥っている。そういう状態に居て、ただ一つの救いは、私は私自身の陥っている状態を ちゃんと自覚できているということでしょうね。その自覚を失わないようにするために──正気を喪わないようにするために──、私は本 ホームページ の 「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 を綴って来ました。私は、自分が かつて 出版してきた著作を読み返したことはないけれど、「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 を たまに読み返して、自分の意識を確認することがあります。

 「倒錯した世界」 というふうに先ほど綴りましたが、現実の世界と この世界は並存する、そして併行する [ 平衡する ] 世界ではないかしら。あるいは、独我論風に言えば、二つの世界は同じ大きさであって、現実の世界 (他我) に対して、この世界 (自我) は自分の 「意識 (認識)」 と云ってもいいでしょう。そして、この二つの世界を巧みに行き来して、鑑賞の対象となる美的な作品を創った人たちが芸術家と称せられるのでしょうね。この二つの世界の交流術が下手な人──我々凡人は たいがい 下手なのですが、特に現実の世界に気を向けないで自分の心理の世界を非常に愛して弄 (まさぐ) っている人──を 「メンヘラ」 と呼んでいるのでしょう。

 これらの世界は、心理学という学問が生まれて意識や行動が分析対象になっている現代おいてのみ特有なものではないのであって、古人も それらの世界を意識していました──例えば徒然草、「つれづれなるままに、日ぐらし硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ」。ただし兼好法師は現実の世界を具 (つぶ) さに観ていました。丁寧な観察と沈着な分析が 「徒然草」 を名作たらしめているのでしょうね。そして、現代人が陥りやすい罠は、大雑把に 「汎化」 された パターン の上に詳細な論説を労することでしょう──「考えるな、観よ」 (ウィトゲンシュタイン)。

 
 (2018年11月 1日)


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