anti-daily-life-20190115
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Be in earnest, then, and turn from your sins. (Revelation 3-19)

 



 小林秀雄氏は、「読書の工夫」 の中で次の文を綴っています。

     一般に若い頃に旺盛だった読書熱というものを、年を
    とっても持ちつづけている人はまことに少い。本を読む
    暇がなくなったという見易いことには誰でも気が付くが、
    本というものを進んで求めなくなって了った自分の心には、
    なかなか気が付かぬ。又、気が付き度がらぬ。

 私は、若い頃 (20才代後半)、プログラマ の職に就いていたのですが、システム 納入日が近づくにつれて、御多分に洩れず、残業・徹夜の日々を送っていました──10日間、コンピュータ 室に閉じ籠もって、家に帰ることができなかたこともあります (現代なら、労働基準法 違反になるでしょう)。書物を読めない日々が続いて、元来が読書好き (文学好き) な私は、プログラマ になったことを とても後悔していました。ただ、自分が請け負った仕事は きちんとやり遂げたかったので、読書できない不満を抱きながらも、プログラマ を一所懸命に演じていました。やがて、その不満が堪えきれない沸点に達して、私は とうとう 辞職しました。辞職した理由は、仕事が辛いからではなくて、書物を読むための時間が確保できなかったからです (辞職の理由として それを会社に正直に言った訳ではない、「プログラマ は、自分のやりたい職ではない」 と伝えました)。

 私の生活において、書物 (および音楽) のない生活は想像できない。小林秀雄氏が指摘している 「本というものを進んで求めなくなって了った自分の心には、なかなか気が付かぬ。又、気が付き度がらぬ」 ということは私の生活においては 毛頭 有り得ない。私は、自分が住んでいる アパート の他に、書斎用として一室 (3DK) を借りて書物を置いています──その賃借料は高いので、貧乏な私は極貧状態ですが、それでも書物を読みたい。

 読書の効用などということには私は全然興味がない。敢えて言えば、読書は 「考える」 材料を私に与えてくれるから、私は進んで読書するというのが正直な感想です。そして、「考える」 材料として、文学・哲学・英語・数学の書物が私の好みにあう。言語──それが自然言語であれ形式言語であれ──に興味を抱いているのかもしれない。私は、40才から現在 (65才) まで、モデル 論 (事業分析・データ 設計のための モデル 技術) を手がけてきましたが、その根柢には言語 (文学・哲学・英語・数学) の主題があるからこそ探究を続けてこられたのであって、もし私が プログラマ の延長線上で モデル を捉えていたのならば、これほど長いあいだ探究を続けられなかったと思う──言語への関心が主題 (導入部) であり、モデル 論は その主題の展開部です。

 書物好きな私は、書物を読まない人たちを侮ってはいない。実際、書物を読まないでも、頭のいい立派な人たちは私の周りに多くいます。

 実生活と芸術について、小林秀雄氏は次のように言っています──

     実生活にとって芸術とは (私は人々の享楽あるいは休息あるいは
    政策を目的とした作物を芸術とは心得ない) 屁のようなものだ。
    この屁のようなものとみなす観点に立つ時、芸術というものを一番
    はっきりと広く浅く見渡す事が出来るとともに、一番朦朧 (もうろう)
    と深く狭く覗 (のぞ) く事が出来る。ここに客観的批評と主観的批評
    が生れる。芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす仮定の上には
    どんな批評も成り立たぬ。
    (批評家失格 T)

 書物を多数読んで書物について蘊蓄 (うんちく) を披露する輩を私が嫌うのも、そういう輩には小林秀雄氏が述べる自覚 (「実生活にとって芸術とは屁のようなものだ」 という自覚) がなくて、そういう人たちは芸術を高尚なもののように思っていることに因るのかもしれない。書物を読んで魅了されて書物が好きになった、そして書物が好きだから書物を読んでいる、それでいいではないか。後付けの蘊蓄・屁理屈などは酔狂にすぎない。

 
 (2019年 1月15日)


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