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anti-daily-life-20190615
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if we hold firmly to the end the confidence we had at the beginning. (Hebrews 3-14)

 



 小林秀雄氏は、「道徳について」 の中で次の文を綴っています。

     自信というものは、いわば雪の様に音もなく、幾時 (いつ)
    の間にか積もった様なものでなければ駄目だ。そういう
    自信は、昔から言う様に、お臍 (へそ) の辺りに出来る、
    頭には出来ない。頭は、いつも疑っている方がよい。
    難しい事だが一番健康で望ましい状態なのである。

 こういう自信が出てくるのは年齢でいえば、(私自身の体験を振り返ってみれば、)40歳代後半あるいは 50歳代前半からではないかしら。その年齢以前には、「頭は、いつも疑っている」。勿論、その前提には、30歳代には仕事を懸命にやってきたという過程がなければならないでしょう。それ故、その過程を蔑ろにして自信など出る訳がない。自信は実績を前提にしているでしょう、実績のない自信などは空威張りにすぎない。一事に熟練するにつれて、自信は 「いわば雪の様に音もなく、幾時 (いつ) の間にか積もった様なもの」 になっていくのではないかしら。他人から褒められたら自信を持ち貶されたら落ち込むというでは他信にすぎない。

 私は、30歳代の頃、ひょうんなことから データベース 技術・データ 設計に関わって、それ以後 60歳代半ばの今に至るまで モデル 論 (事業分析・データ 設計のための モデル 技術) を探究してきました。30歳代に リレーショナル・データベース を日本に導入普及する仕事をして [ 当時、リレーショナル・データベース は日本に導入されていなかった ]、多くの企業 (clients) にて データベース を実地に導入指導するほかに講演 (公演) や セミナー の講師も数え切れないくらい多く務めてきました。

 講演 (公演) や セミナー では聴衆・聴講生から その中身を批評 (rating) されます──当初 (30歳代)、私に対する酷評が多かった。当時の私は話しかたが挑発的だったので非難されるのは覚悟のうえでした。講演 (公演) の事後 アンケート に目を通して私が感じた点は、聴衆は自分たちの知らないことや体験していないことについて悪口を言う傾向が強いということです。それゆえ逆に、私は聴衆を煽って いっそう挑発的な話しかたになった (笑)。いっぽうで私は ソフト・リサーチ・センター 社の ほぼ専属講師として 30年以上務めてきて、事後 アンケート の評価は五段階では平均 4.5 という高い評価を得ていました。単発として一回きりしか話さない公演と定期的に繰り返して継続する セミナー では、話の進めかたが違うのは当然のことです。

 セミナー では、30歳代の頃、私は聴講生の事後 アンケート が ひどく気になった──褒められたら嬉しかったし、貶されたら落ち込みました。40歳になったときに私は モデル 技術 (T字形 ER法) に取り組み始めて、多くの企業において成功実績を積んではいましたが、それでも セミナー・アンケート の評価を気にしていました。実地の成功体験だけを以てしては自信にならないのでしょうね。2000年に拙著 「論理 データベース 論考」を出版した後、セミナー・アンケート を気にしなくなっていました──その理由は、数学 (および哲学) を学習して T字形 ER法を理論的に検証して、T字形 ER法の不備を正すことができたからだと (今振り返ってみて) 思います。

 私は数学が嫌いで文系を選んだので数学の正規の学習をしていなかった故に、数学・哲学を学習していた頃には (勿論、今も学習を続けていますが)、学習を どのように進めていいかも わからず、喩えれば夜中に真っ暗な大海に投げ出されて どの方向に泳いでいけば陸に辿り着けるか 皆目 わからず、ただただ強烈な不安のなかで足掻いていました──当然、自信などない。やっと なんとか数学基礎論 (集合論・関数論・モデル 論・証明論) の基礎を学んで、T字形 ER法を見直して不備を改訂して TM を作りました。

 しかし、TM を作って はっきりと わかったことは、TM の技術は数学の基礎的技術を使っているにすぎないことでした。私独自の着想を技術にしたと思っていたのが、実は数学の基本中の基本でしかなかったことを知って、私は落胆したと同時に安堵しました──論理の王道を逸脱してはいなかった、と。この頃から自信と呼べるようなものが身についた。今振り返れば、それは私が 50歳頃のことです。TM を作るまでは、「頭は、いつも疑って」 いました。数学・哲学の学習を積んできて、自信が次第に 「いわば雪の様に音もなく、幾時 (いつ) の間にか積もった様」 です。その自信は、他人から得た評価ではない──自分は間違った考えかたをしていないという意識が自信になるのでしょう (勿論、自分が勝手に思い込んだ・独りよがりの自信ではなくて、学問 [ 論理 ] から逸脱していないことに ウラ打ちされた自信でなければならない)。

 
 (2019年 6月15日)


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