anti-daily-life-20191101
  × 閉じる


Pilate answers, "What I have written stays written." (John 19-22)

 



 小林秀雄氏は、「文学と自分」 の中で次の文を綴っています。

     文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える
    事と書く事との間に何んの区別もないと信ずる、そういう意味
    なのであります。拙く (まず) く書くとは即ち拙く考える事で
    ある。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりする
    と言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書く
    のである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬ
    から書くという意味である。予 (あらかじ) め解っていたら
    創り出すという事は意味をなさぬではないか。

 「考える事と書く事との間に何んの区別もない」── writer とか author と云われている人たちは、きっと そうなのでしょうね。私は writer でも author でもないのですが、著作を今まで 9冊執筆してきて、そして まいつき 本 ホームページ の エッセー を綴ってきて、小林秀雄氏の意見に同感します。著作では あらかじめ 書くことが はっきりしている (と思って、執筆を はじめる) のですが、当初 立てた体系 [ 目次 ] 通りに捗らないのが 極々 普通です──頭のなかでは書く内容が出来上がっていると思っていても、いざ書き始めると中身の詰めが あまかったり (あるいは、逆に冗長であったり) 更に書かなければならないことを見落としたりしていて、思考が杜撰であったことを思い知らされる。「拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりする」。

 「拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである」──本 ホームページ の エッセー (「反 コンピュータ 的断章」 と 「反 文芸的断章」) は、私が 常日頃 考えを巡らしている課題 [ たとえば、仕事としている モデル 技術 ] ではなくて、他人の言説を素材にして改めて それに促されることを考えるという形式をとっているので、「書かなければ何も解らぬから書くのである」。そうやって綴った エッセー を 後日 読み返してみて、私自身の考えかたが私にも はじめて わかる。書きながら自らの考えを彫塑してゆく──「予め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬ」。

 
 (2019年11月 1日)


  × 閉じる