anti-daily-life-20191201
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The Word was the source of life, and this life brought light to people. (John 1-4)

 



 小林秀雄氏は、「文学と自分」 の中で次の文を綴っています。

     人間は、一枚の紅葉の葉が色づく事をどうしようもない、
    先ず人間の力でどうしようもない自然の美しさがなければ、
    どうして自然を模倣する芸術の美しさがありましょうか。
    言葉も亦紅葉の葉の様に自ら色づくものであります。ある
    文章が美しいより前に、先ず材料の言葉が美しいのである。
    例えば人情という言葉は美しくないか、道徳という言葉は
    美しくないか。長い歴史が、これらの言葉を紅葉させたから
    であります。

 小林秀雄氏は 「先ず材料の言葉が美しいのである」 と言っていますが、私は それには賛同しない。文学愛好者のなかには 「言霊」 ということを言う人たちが多いようですが──ちなみに、私も若い頃 (40歳以前) には そうでしたが──、私は今では 「言霊」 を信じてはいない。すなわち、ことば [ 単語 ] そのものを私は重視していない。ことば [ 単語 ] 自体は、事実を記述するための符牒 (sense としての対象的意味) であって、それが正確な 「意味」(meaning として使用的意味) をもつのは 「文脈」 のなかでしかないと私は思っています。ことば は、実際に使われている文脈のなかでこそ耀 (かがや) きを放つのではないか。

 たとえば、「愛」 という ことば は美しいのか? 「愛」 は存在するのか? こういう論点は哲学・文学で すでに論じられてきたので ここで それらの言説を哲学・文学の専門家でもない私が したり顔で再説するつもりはない。私は仕事で モデル 論 (モデル 技術) を使っているので、それが私の考えかたの中核を占めていて、その観点から ことば について述べてみます。モデル は、「現実」 の写像です──「現実」 の模型・実例です。モデル は 「現実」 を モノ (集合 [ ことば で記述された モノ の集まり] ) と それらの関係を使って記述します。モノ のあいだに生じる関係 (の成立・不成立) は様々です──すなわち、モノ は単独では存在しないのであって、関係のなかで その存在意義をもっているということです。逆接に響くかもしれないのですが、なんらかの関係のなかに関与することが モノ が存在するということです。

 一人の母親と一人の子との組があって、母親は子が誕生してから様々な行為 (授乳・おむつ替えなどの育児をはじめ様々な行為) の関係のなかで、可愛がること、大切にすること、いつくしむ思いやりなどが感じられて、そういう行為が他の母親にも観られるので、そういう行為を総称して 「母性愛」 と云い、同様に 「人類愛」 「愛国心」 「愛校心」 「愛社精神」 「家族愛」 などという ことば が生まれたのでしょう──ことば は それが誕生するときには オノマセオロジー 的現象でしょう、そして その ことば が いったん生まれて通用すると セマシオロジー 的分析になっていくのでしょうね。個々の行為のなかで共通して観られる性質・条件を一般化 (汎化・抽象化) して ことば が生まれ、そして ことば が いったん生まれたら、汎化された意味を個々の行為の記述に使うことになるでしょう (簡単に言えば、ことば は具象物・抽象物に対する 「名指し」 から生まれて、多くの人たちのあいだで通用して、通用している ことば を我々は使っている)──それが ことば の公共性ということでしょう。しかし、数学のような 「ひとつの符牒が ひとつの意味 (値) しかもたない」 という領域では単称・特称・全称のあいだに論理規則を立てることができるのですが、日常生活のなかでの行為については、類似の行為でも論理的法則に因る汎化は完全には成立しないでしょう。国語辞書に記載されている ことば は大まかな語義しか記述していないので単称 [ 個々の事態 ] に対して適用しようとしても そのままでは個々の事態を適確に記述し得ない。そのために、ことば の意味を文脈のなかで的確に記述しようと試みる。そういうふうに我々は文を綴ってきているのではないか。

 モデル 技術を指導しているときに、モデル 技術を初めて習得する人たち および 習得して日の浅い人たちに観られる特徴が、(モノ のあいだに成り立つ 「関係」 を度外視して) モノ そのものを分析したがるという点です。しかし、モノ それ自体には意味はない、或る構造のなかで モノ のあいだに成り立つ関係にこそ意味がある。何も無い空白のなかで モノ が存在する訳ではない──数学では、何も無い状態を空集合と云って、一者 (空集合の存在) と見做してはいますが、現実の社会では有り得ない。他の モノ と絶縁した モノ のなかに絶対的な価値 (意味) がある訳ではない。

 ことば [ 単語 ] には生活のなかで体験してきた なんらかの 「印象 (image)」 が付帯している。そして、その 「印象」 は それぞれの人ごとに当然ながら異なっている。個々人には愛着を抱いている (あるいは、その逆に嫌悪を感じる) ことば も存するでしょう──それらの ことば は その人の人生という文脈のなかで意味をもっているのであって、他人は与り知らぬことです。この点をもってしても、ことば [ 単語 ] そのものには さして重大な情趣があるとは私には思えない。

 
 (2019年12月 1日)


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