anti-daily-life-20200201
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you can be proud of what you yourself have done, without having to compare it with what someone else has done, (Galatians 6-4)

 



 小林秀雄氏は、「歴史と文学」 の中で次の文を綴っています。

     ただ単に現代に生まれたという理由で、誰も彼もが、
    殆 (ほとん) ど意味のない優越感を抱いて、過去を
    見はるかしております。

 「現代と過去」 については、「反文芸的断章」(2018年11月15日付け) のなかで かつて綴っているので、本 エッセー では観点を変えて綴ってみます。

 小林秀雄氏の言うような 「優越感」 を持って過去を見はるかしている人たちなど ほんとうに居 (お) るのかしら、、、小学生や中学生なら そういう間の抜けた ヤツ も居るかもしれないけれど、社会に出て仕事をしている大人のなかに それほどの蒙昧な ヤツ は居るとは思えないのだが。もし 「優越感」 を持っているとすれば、その拠 (よ) り所は いったい 何かしら、、、それは たぶん 過去に較べて すぐれている社会制度、そのなかで流通する商品、そして それらを造っている現代人の知性かしら。しかし、それらは過去のものと水平的に (horizonal) に比較されるものではなくて、そもそも 過去のものが礎となって (vertical に) 延長されてきたものでしょう。そして、現代も未来からみれば、系統樹を構成する一つの点 (過程) でしかない──なぜなら、時 (とき) は裁断なく流れるのだから。

 たとえば、Internet や WWW や SNS がなかった時代を現代人が不便な時代だったと考えるなら、AI が成熟した未来からみれば、現代を不便な時代だったと考えるでしょう──それぞれの時代は その時代に住む人たちが工夫を凝らした それぞれの現代であったはずです。荻生徂徠は歴史を学ぶことを大事にした人物ですが、歴史を学ぶことを次のように綴っています (「書簡」)──

     されば、見聞広く事実に行われたり候を、学問と申事
    に候故、学問は歴史に極まり候事に候。古今和漢へ
    通じ申さず候へば、此国今世の風俗之内より、目を
    見出し居り候事にて、誠に井の内の蛙に候。

 私は荻生徂徠を読み込んできましたが、江戸時代に生きた彼から学ぶことが多かった。

 「今、ここで (here and now)」 というのは人為的に範囲を限定した観念ですが、実世界は運動が連鎖した延長ある時空です。一つの事態は単独で [ 他の事態との関係を切り離されて ] 運動している訳ではない。Internet や WWW や SNS は、それらの萌芽が過去の通信技術にあるし、その通信技術は社会のなかで他の技術 (コンピュータ や半導体など) と相互補完的・統一的に進んできました。こんな当たり前のことを度外視して、現代人が過去を優越して見はるかしているなどあろうはずもないでしょう。ゲーテ は次のように言っています (「鉱物学と地質学」)──

     或る学問の歴史は、その学問そのものを表わす。
     或る人の歴史は、その人そのものを表わす。

 その意味では、現代に生まれたという理由だけで過去に対して優越感を抱いて見はるかす ヤツ は、文字通りに raison d'etre (存在理由) を喪っている輩でしょうね、だから私は そういう ヤツ を蒙昧と蔑視したのです。

 
 (2020年 2月 1日)


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