anti-daily-life-20200315
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Why is it that your disciples disobey the teaching handed down by our ancestors? (Matthew 15-2)

 



 小林秀雄氏は、「伝統」 の中で次の文を綴っています。

     誰の胸にも、古 (いにしえ) を惜しむ感情はあるので
    ありまして、古を惜しむという事が、取りも直さず伝統
    を経験する事に他ならないのである。従って、この感情
    を純粋にし豊富にしようと努めることが伝統というもの
    をしっかりと体得する唯一つの道だ。

 「伝統」 については、本 ホームページ のなかで かつて いくども述べてきたので、それらを読んでください──本 ホームページ に搭載されている サーチ・エンジン の 「search this site」 を使えば、「伝統」 について語っている ページ を検索できます。

 「日本の伝統」 という言いかたがされるけれど、それは信仰・風習・制度・思想・学問・芸術などの中心を為す精神的在り方が日本において独特に観られるもの (他国とは違う特徴的なもの) を云うのかしら、、、そうだとすれば、他国と対比してみなければ、決して分かるものではないでしょうね。私が 「日本の伝統」 を意識したのは 30歳代のときに仕事で海外に多く出向いたときでした──海外出張の頻度は多いときには一年に 6回、少ないときでも年に 3回ほど、一回の滞在期間は長いときには 2ヶ月、短くて 2週間で、10年のあいだ そういうふうに海外に出向いていました。出張先は、ほとんど 米国でした。私は、海外留学や海外転勤をしたことはないけれど、10年間ほど頻繁に海外に出向いていました。30歳以前に、私は、「日本の伝統」 とか 「やまと魂」 とかいう ことば を日本国内で聞いていたし、たぶん、いくどかは会話のなかで私も使ったことがあったと思います。しかし、それらが どういうものであるのかは私には具体的に分かっていなかった。

 初めて米国の地を踏んだときから 3年間ほど私は英語に難儀しました。当時の私の仕事は、日本に先例のなかった アプリケーション・パッケージ (固定資産会計、MRP U) の日本語化・日本化することや、当時 世界で話題になっていたけれど日本には いまだ導入されていなかった リレーショナル・データベース を日本へ普及することでした。データベース の技術を私は米国人たちから指導されました。当然ながら英語ができなければ仕事にならない。日本の学校では私は英語が得意なほうでしたが、本場 米国では私の英語は ほとんど通用しなかった。私は改めて英語を学習し直しました──ちなみに、日本の当時の英語教育が役に立たないと私は言っているのではなくて、それどころか学校で習ったことが後々とても役に立った。私が英語を使って仕事が それなりにできるようになるまで 3年を要しました。仕事で英語を使わなければならない、だから英語を懸命に学習する──これは当たり前のことでしょう。そして、英語を使う仕事に就いていなければ、英語がうまくならないということも当然でしょう。片言英語でもいい、伝えたい 「意味」 が伝わればいい、という人たちがいますが、観光旅行などの日常会話であれば それでもいいでしょうが、仕事では、それでは使いものにならない。その人が どれほどの英語力をもっているかは、その人が書いた英文を読めば はっきりと分かります。正式な英文 (文法的に正しい英文、そして意見・論点が論理的に構成されている英文) を書くことができなければ、技術 マニュアル に記述されている詳細なことを米国人たちと意見交換できないでしょう。

 30歳代で英語を懸命に学習したことが、私の思考に大きな影響を及ぼしたようです。そして、私は40歳代・50歳代に数学 (数学基礎論)・哲学の学習に専念しましたが、30歳代に英語を学習してきたことが とても役に立ちました。英語は、数 (と冠詞)・時制・確率 [ probability ] について敏感な言語です。そういう特徴をもつ英語が形式言語 (論理式) を学習するときに それとなく役に立っているようです。そして、自然言語について考えを巡らすとき、日本語と英語を対比して、それぞれの言語の文法 (単語を使う文法・コロケーション) の相違、ひいては発想の相違点を私は強く意識するようになった。それぞれの国の人たちが事態 (事物と事象) に対して、どういう感情・思考を表すかは言語として現れる。それぞれの国の言語上に現れた発想法の相違点は、当然ながら、それぞれの国の人たちの生活様式との相互作用を反映しているでしょう。私は、60歳代になって今ようやく、「日本の伝統」 を識るための用意ができました。20歳代の頃、亀井勝一郎氏の 「日本人の精神史」 を読んで、私も日本人の精神史を私なりに綴ってみたいと思って日本の古典文学を読んできたのですが [ 本 ホームページ の 「読書案内」 をご覧ください ]、その入り口に立つのに 30年もかかった──そして、たぶん (否、きっと)、私は日本人の精神史を まとめることをしないでしょうね (正確に言えば、できないでしょうね)。

 日本人の精神史をまとめることを私が諦めた理由は、年齢の所為ではない (私は66歳です、日本人の男性の平均寿命が 80歳くらいなので平均寿命から逆算して、私には のこされた年数が少ない) 。私は仕事として モデル 論の探究を続けていて、そちらのほうに労力を注ぎたい。したがって、「日本の伝統」 について、私ができることは、日本語と英語を対比して、それぞれの発想の違いを意識することくらいでしょうね。小林秀雄氏は、「誰の胸にも、古 (いにしえ) を惜しむ感情はある」 と述べていますが、私には その感情は薄い。「古を惜しむという事が、取りも直さず伝統を経験する事に他ならない」 し、「この感情を純粋にし豊富にしようと努めることが伝統というものをしっかりと体得する唯一つの道」 であれば、私は 「伝統」 を分かることが きっと できないでしょう。フランス 語に堪能だった小林秀雄氏は、日本人の伝統を彼の著作 「本居宣長」 のなかに結実しましたが、私には そういうふうに結ぶ古の人物もいない。「日本の伝統」 というふうに我々は云うけれど、そして確かに それは日本人の精神や社会のなかに 代々 継承されているのだけれど、その正体が どういうものであるのかを私は分かっていない。

 
 (2020年 3月15日)


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