anti-daily-life-20200615
  × 閉じる


...none of us can explain by ourselves a prophery in the Scriptures. (2 Peter 1-20)

 



 小林秀雄氏は、「無常という事」 の中で次の文を綴っています。

     解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。これが宣長の
    抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘めら
    れた思想だ。

 小林秀雄氏の エッセー 「無常という事」 は短編ですが、彼の作品のなかで世評が高い作品の一つですね──私も この作品が好きです。この作品は、全編を引用文としてもよいと思うくらいの示唆に富んだ作品です。その作品のなかから上記の文を引用しました。その主題 (「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」) を核として彼は心中を吐露しています、その心中を吐露した論説は多くの人々の代弁をしているからこそ世評が高いのでしょうね、彼の論説のなかで私が共感した文を次に引用します──

     それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え
    去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。

     僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出して
    いるだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ
    一つがはつきりとわかっている様な時間が。

     一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と
    映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともする
    ものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なもの
    ではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ
    美しく感じられた。

     歴史には死人だけしか現れて来ない。従って退っ引きなら
    ぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。

     僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に
    余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を
    一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけ
    ないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。

     上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去
    から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想
    (僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から
    逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。

 小林秀雄氏の これらの意見は、彼と同時代に彼と同じような仕事 (文芸批評) をしていた亀井勝一郎氏の思想にも見つけることができます──亀井勝一郎氏は、「招魂」 という ことば を使っています、亀井勝一郎氏の言う 「招魂」 の結実が彼の作品 「聖徳太子」 「親鸞」 でしょうね。それらの作品のほかにも亀井勝一郎氏の歴史に対する態度がわかる エッセー として、「大和古寺風物誌」 「美貌の皇后」 「廃墟 (礎石をめぐつて)」 なども私は愛読しています。

 亀井勝一郎氏・小林秀雄氏を読み込んできた私は、彼らの思想を ふんだんに浴びてきて、彼らの考えかたが私の思考に痕跡をつけたのは確かでしょうね。Internet が普及した現代では、YouTube の動画のなかに昭和時代の風景・風俗を記録した動画が数多く アップロード されています。それらの動画を観るのが私の愉しみの一つです。それらの動画を観ていて、昭和時代初期の動画に映っている人たち [ 大人たち ] は、この世には もういないのだなあという思いを抱 (いだ) きながら、画面に映っている人物・事物を隅々まで観ています。

 私は学校で習った 「歴史 (正史?)」 を好きではない、寧ろ民俗学のほうに惹かれる。事物の延長 [ 具体的な事物が占めている空間 ] を欠落した生活空間には私は興味を感じない──私が興味を惹かれる点は、当時の人々が どのような家に住んでいて、どのような食事をして、どのような服を着て、どのような生活環境 (社会生活 [ 街並み、商店街、会社、歓楽街など ] ) のなかで生活していたのかという点であって、当時の生活の復原を愉しんでいるのかもしれない。

 かつてこの世に存在したが今はもう存在しない事物について思いを巡らすとき、我々は空想的になりやすい。しかし、当時を復原するためには、できるだけ多くの史料を集めて 「事実」 を探さなければならない。私が復原を愉しんでいるのは、それが漠然たる空想に浸るのではなくて空想を拒絶するからです──なぜなら、それらの事物は過去に実際に存在したのだから。そういう意味では、当時の復原は事物の 「発掘」 ということかもしれない。そして、復原された事物を舞台にして、舞台に立っている人々の思考・感情に参入するためには──当時の人たちが どのような考えかたをして、何を好んで何を嫌っていたかを知るためには──当時の文献を できるだけ多く読まなければならない。しかしながら、この探究は私の力量を超えています [ 民俗学の専門家ではない私には できない ]。「喩えてみれば、演劇で舞台装置が揃って、舞台が整えられたにもかかわらず、登場人物がいない、というような ひっそりとした舞台なのです」 という文を私は かつて (2007年10月16日に) 「読書案内 (民俗学 [ 衣食住 ])」 のなかで綴りましたが、あれから 13年たった今も その意見は変わっていない。過去を 「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」。しかし、「上手に思い出す事は非常に難しい」。

 
 (2020年 6月15日)


  × 閉じる