anti-daily-life-20200715
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Don't you understand this parable? (Mark 4-13)

 



 小林秀雄氏は、「徒然草」 の中で次の文を綴っています。

     「徒然わぶる人」 は徒然を知らない、やがて何かで紛れる
    だろうから。やがて 「惑の上に酔ひ、酔の中に夢をなす」
    だろうから。兼好は、徒然なる儘に、「徒然草」 を書いたの
    であって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、
    書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころ
    か、眼が冴えかえって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り
    過ぎる辛さを、「怪しうこそ物狂ほしけれ」 と言ったのである。

 私は、或る時期、「徒然草」 を専念して丁寧に読んだことがあります──その読書の渦中で、「徒然草」 について私家版辞書を作成しました。その辞書は、「徒然草」 のなかで使われている古語について、その意味と例文を集めて、それぞれの例文に対して英訳も併記しています (英訳は、海外で出版されている 「徒然草」 の英訳本から転載しました)。私は 「徒然草」 を そうとうに読み込みました。

 さて、「わぶる (侘ぶる)」 の意味は、「わびしく思う、気落ちする」 です。小林秀雄氏が言っていることは、「徒然わぶる人 (為ることがなくて、手持ち無沙汰で やりきれない人) は、他にやることを見つけたら、つれづれ (為すこともなく退屈なさま) も消え去るだろうが、兼好は そういう人ではなかったのであって、彼は筆を執っても心が満たされることなどなかった──書けば書くほど眼が冴えて かえって物が一入 (ひとしお) 見え、『怪しうこそ物狂ほしけれ』 状態になった」 ということですね。

 「徒然草」 は、ひとつずつの短い随筆 [ 段 ] が それぞれ 完結していて、それらが集成されて ひとつの作品となっています。その構成ぐあいを英語で云えば hotch・potch (寄せ集め、ごった煮) と言っていいでしょう。「徒然草」 の構成については、「読書案内」 で かつて 述べているので参考にしてください。ひとつの段は短いけれど、兼好法師が物事を観る着眼点は現代の批評家の上を行くと私は感じています。兼好法師は、確かに 「慧眼の士」 と云えるでしょう──「慧眼」 は、「物事を よく見抜く すぐれた眼力。鋭い洞察力」(広辞苑)という語義です。しかも、兼好法師の慧眼を小林秀雄氏は次のように述べています (小林秀雄、「徒然草」)──

     彼には常に物が見えている、人間が見えている、見え過ぎ
    ている、どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。評家は、
    彼の尚古趣味を云々するが、彼には趣味という様なものは
    全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ。
    「今やうは無下に卑しくこそなりゆくめれ」 と言うが、無下に
    卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実
    な形を一つも見逃していやしない。そういうものも、しっかり
    見てはっきり書いている。

 「徒然草」 の構成を hotch・potch と私が言ったのは、作品のなかに 「一貫した 『思想』」 というものを感じられないからです──「徒然草」 を学校で習ったときに、その作品に流れる 「思想」 として、歌人としての伝統文化的教養と求道者としての仏教的教養を基礎にしているというように教わった記憶があるけれど、そのいずれもが徹底してはいないというのが私の感想です。徹底するには、兼好法師は多くの物事に対して好奇心が実に強すぎた。ただし、それを私は非難しているのではない、それが 「徒然草」 の特色だと私は思っています (似たような物事について綴っている段のあいだに撞着・矛盾がときどき見られます)──兼好法師が法衣を着流しふうに着用している感が私は大好きなのです、「徒然草」 の全編を読んで 「洒脱」 感を私は覚えるのです。世捨て人の厭世観など微塵も感じない、「出家」 していながらも 「祭り」 を観るために下山する兼好法師の態度を私は大好きです。

 物事が見えすぎるという状態は、見なくてもいいもの──たとえば、人性 (人間の性質) の醜悪さなどが見えて──、見えすぎる人に悲しみをもたらす。私は、良寛和尚の次の ことば が好きです──

    君看雙眼色 不語似無憂
    [ 君看よや 雙眼の色 語らざるは憂なきことをしめす ]

 その気持ちと同じ状態を兼好法師は 「怪しうこそ物狂ほしけれ」 と綴ったのではないか。そして、小林秀雄氏は、「徒然草」 のことを 「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである」 と指摘して、この 「空前の批評家の魂」 について次のように綴っています (小林秀雄、「徒然草」)──

     この物狂おしい批評精神の毒を呑んだ文学者は一人も
    なかったと思う。西洋の文学が輸入され、批評家が氾濫し、
    批評文の精緻を競う有様となったが、彼等の性根を見れば、
    皆お目出度いのである。「万事頼むべからず」、そんな事が
    しっかりと言えている人がない。批評家は批評家らしい偶像
    を作るに忙しい。

 書き手の人物を感じさせないような批評文を──否、批評文にかぎらず文芸作品を──私は好きになれない。そして、昔から今まで読まれ続けてきた [ 文学史に名を刻んだ ]、あるいは いつの世にも読まれるべき価値をもった評価の高い作品は、「怪しうこそ物狂ほしけれ」 というなかで書かれてきた作品ではないか。

 
 (2020年 7月15日)


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