anti-daily-life-20200901
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we have left everything and followed you. (Matthew 19-27)

 



 小林秀雄氏は、「実朝」 の中で次の文を綴っています。

     努めて古人を僕等に引寄せて考えようとする、そういう
    類いの試みが、果して僕等が古人と本当に親しむに至る
    道であろうか。必要なのは恐らく逆な手段だ。実朝という
    人が、まさしく七百年前に生きていた事を確かめる為に、
    僕等はどんなに沢山なものを捨ててかからねばならぬか
    を知る道を行くべきではないのだろうか。

 私は、仕事上 数学基礎論の考えかた・技術を使っていますが、そもそもの性質として 「文学青年」 気質です。「文学青年」気質の強い私ですが、ものの見かたとして、(数学基礎論を学習しはじめたのは 45歳頃ですが、その学習を根底にして ものを見る視点が確乎となったのは 50歳を越えてからの頃で それ以後は) つねに、数学基礎論の 「レーヴェンハイム・スコーレム の下降定理」 を起点として考えるようになりました。

 その定理は、証明結果だけを要約して言えば、「数学的概念に関して、絶対的性質の記述は不可能である [ noncharacterizability ] ということを示しています。つまり、モデル [ 形式的構造 ] を離れて (すなわち、「解釈」 を離れて)、モデル の外側に形而上的実在として 「絶対的な真」 が存在している訳ではない、ということです。「(モデル の) 解釈」 から独立して 「(対象の) 指示」 ができる訳ではないのだから、「指示」 は それぞれの 「解釈」 を免れる訳ではない──「指示」 は、「枠組み」 の総体を前提にした全体論的な 「解釈」 の内部 (from within) からしか確定できない、ということです。この証明 (レーヴェンハイム・スコーレム の下降定理) は 「数学的概念に関して」 という制約を置いていますが、この証明の考えかたは日常的事態にも適用できるでしょう。

 文学愛好家のなかには、「モノ の本質」 だとか 「言霊」 だとかというような 「モノ そのものの中に (intrinsic) 真 [ 本来備わっている固有の真 ] が実在する」 と思っている人たちが多いようですが、noncharacterizability を考えかたの根底に置いている私は、他の モノ との 「関係」 (「枠組み」 の総体) を無視して、モノ そのものの 「意味」 が内在している訳ではない、と確信しています。

 古い時代の物事・人物 (たとえば、七百年前に生きていた実朝) を知るには、その 「枠組み」 (実朝が社会のなかで編んでいた 「関係」) を知らなければ、実朝の人物像を知ることはできないのは当然のことでしょう。その 「枠組み」(実朝が置かれた関係の総体) を知るには、当時の文献を読んで、当時の社会 (つまり、実朝を取りまく環境) を復原 [ 再現 ] するしかない。それが たとえ完璧にできたとしても、それで実朝の気持ちがわかる訳ではない。その生活様式 (複雑に絡みあった 「関係」) の中で、実朝が どういう精神をもっていたのかは、推測するしかない──そして、その推測では、現代人の感覚 [ 物事に反応して起こる感情 ] と古人のそれが同じであるという確証はない。

 われわれが実朝の歌を鑑賞するとき、われわれは現代の感覚をもってして彼の歌を 「解釈」 する──そして、その 「解釈」 のことを現代的解釈とよんでいるけれど、その現代的解釈は (実朝が歌に託した心情を味わうのではなくて、) われわれの都合のいいように彼の歌を 「解釈」 しているだけでしょう。小林秀雄氏の ことば を借りれば、「努めて古人を僕等に引寄せて考えようとする」。

 実朝が歌に託した心情を顧みることなどしないで、私にとって実朝の歌が どういう 「意味」(あるいは、価値) があるのかという観点から実朝を読むことも 勿論 (「解釈」 の一つとして) 私は否定するつもりなどない──否、正確に言えば、文学作品を読むときの私の態度は、そういう 「(文学作品の鑑賞ではなくて) 私の視点から作品を 『解釈』 する」 ということが ほとんど です。つまり、私の感覚器官の中で起こる作用が作品に投射されて、その作品を 「解釈」 するということが ほとんど です。勿論、こんな読書法は作品の鑑賞には値しないし、学問的な作品分析にもならない。しかし、私の読書のほとんどは、そういう読みかたであって、書物は私の精神 (知・情・意) を養うための手立ての一つだと思っています。実朝の歌のなかで私の好きな歌──

    大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも

    紅のちしほのまふり山のはに日の入る時の空にぞありける

 いっぽうで、私が読んだ書物のなかで心酔した書物は、その後 くり返して読み、私の読みかたも (私心を抑えて)「作者の考えかたを忠実に追行する (作者に同行する)」 というふうに逆転します。こういう読書には、「写経」 のように、作品をなぞって書き写すという やりかた がいい。そして、こういう読書は、時間と労力が かかる。だから、そういう読書をする書物は限られてくる。私の場合は、アラン、ヴァレリー、小林秀雄、亀井勝一郎が そういう対象です。彼らは私から そう遠くない時代に生きていたので、私は 「沢山なものを捨て」 ることが さほどなかった──否、寧ろ私は彼らから得た [ 学んだ ] ことが多かった。

 
 (2020年 9月 1日)


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