anti-daily-life-20201215
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When he deals with you, he is not weak; instead, he shows his power among you.
(2 Corinthians 13-3)

 



 小林秀雄氏は、「モオツァルト」 の中で次の文を綴っています。

     強い精神にとっては、環境も、やはり在るが儘の環境で
    あって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているもの
    もありはしない。不足な相手と戦えるわけがない。好もし
    い敵と戦って勝たぬ理由はない。命の力には、外的偶然
    をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。

 この引用文を取りあげることは私には躊躇 (ためら) いがあった、そして この引用文を選んだものの、その後で考え直して 本 エッセー の テーマ とすることを いったん やめて削除しました。テーマ とすることを いったんは引っ込めたけれど、この引用文が私の頭のなかで削除できずに ひっかかっていて、再び 引っぱりだしてきた次第です。私が躊躇った理由は、この引用文が提示している概念の 「在るが儘」 「偶然」 「必然」 を扱うには私の才識を超えているからです──これらの概念は、論理学 (あるいは、数学)・哲学そしてそれらの学問を前提にした諸科学において、優にひとつの大きな テーマ ですので、その テーマ を真っ向から取り組んできてもいない私には説明できる訳がない。私は仕事として モデル 論にたずさわってきたので、数学基礎論・哲学の基礎を学習して、これらの概念を少しは触れてきましたが、真っ向から取り組んではこなかった。したがって、本 エッセー で述べる私の意見は、学問的検証を前提にしたものではなくて、私が日常生活で体感している実感をもとにした経験的意見です。

 言い訳がましいことを くどくどと綴りましたが、これらの概念 (「在るが儘」 「偶然」 「必然」) は、我々が自身で体験する社会現象を説明するときに必ず考慮する (あるいは、避けられない) 概念でしょう。我々を取りまく環境は 「在るが儘」 (何一つ欠けていない空間 [ 外延的存在 ] ) です、これを仏教では 「如是」 と云っています。そして、「如是」 は、時 (時間) のうえでは 「無常」 (生滅流転) です。生滅流転について、その 「法則」 を探ってきたのが科学でしょう。「法則」 というのは、その対象たる事象が因果性・反復性を示す構造をもっていることを云います (構造的必然性)。この構造的必然性は、論理 プロセス (或る前提条件 [ 前件 ] を土台にして論理法則を適用して、その論理的帰結として結論 [ 後件 ] が得られる プロセス、すなわち アルゴリズム) によって保証される。そして、この構造的必然性を証明する公理系 A があれば、当然ながら、その論理的否定 ¬ A (A でない) が同時に成立しないことが要請されている (無矛盾性)。先ほど私は反復性を法則の成立する条件として記述しましたが、反復性がなくても、すなわち一回かぎりの現象であっても、論理的因果性があれば、法則的必然性ではないが個別的必然性と云うことができます。

 必然と偶然は対比される概念になっていますが、偶然というのは上記の必然性を適用できない場合のことを云うのではないか。そういうふうに考えれば、有限が無限を前提にしなければ考えられないように、必然性は偶然性のなかで把握できる概念であって、必然は偶然に内包されている (すなわち、必然は偶然の一部 [ 部分集合 ] である) ということになりますね。そうだとすれば、小林秀雄氏が言う 「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」 ということが納得がいく──彼は 「命の力」 という言いかたをしていますが私は それを思考力だというふうに考えます、外的偶然 (外点) を自らが所有している論理的秩序の構造 (内的必然) に中に次第に取り込んでゆく、というふうに考えられるでしょう。

 「まぐれも実力のうち」 (「偶然も必然のひとつ」) というようなことが云われているけれど、「強い精神にとっては」 その偶然は己れの秩序の中に いずれ 取り込まれるであろう必然、言い替えれば必然の射程距離に入っている偶然 (特性関数の変数として取り込まれる外点) のことを云っているのでしょうね。

 
 (2020年12月15日)


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